ろっくはりうっどの昼

昨日の昼の事。

ろっくはりうっどに、佐々木幹郎氏と伊藤比呂美氏、お二人のお話を聞きに行った。

特に、興味深かった事は、佐々木氏の巨大アンモナイトを探し求めた旅や、 いぇいつ に出会う旅すがらの、イギリス的ぷろてすたんと的世界とアイルランド的かとりっく、けると的世界、古くからの帝国主義対周辺国との抑圧的世界/抵抗の歴史のようなものの襞にふれたような事。

小麦はだめ、じゃが芋しか育てるな等の「禁止」とじゃが芋の不作で飢饉が起こり、それから、アメリカ大陸への移動へと続いて行く流れのようなものも、道しるべのように、この場所で、何百人が行き倒れた。というような記念碑的なものが、残っていると言うようなことなど、そこを訪れたものにしか見えてこない類いの生々しい記憶のようなもの。

ここ数ヶ月、そういったことを色々な局面で考えていたので、そこにあり続け、別の場においても、同じような展開を繰り返しているようなお話を聞いて、なにやら、腑に落ちるところがあった。

佐々木氏の実験的な詩と音との出会いのような作品にも触れたが、詩の朗読と歌が一体になる一歩手前のように、詩がより立ち上がるように谺していて、面白かった。


一方、伊藤さんのアイルランドへの旅で、崖っぷちにともと暗くなる時間帯に行った時の、暗闇に浮かび上がってくる友人の白い靴と白いパンタロン?と野うさぎの白いお尻の話が面白かった。

もしかして、ケルト的妖精は、こういった暗闇に浮かび上がる白いものであったのではないかというような、ふかぶかとした夜を思い描いたりしていたが、ろっくはりうっとの夜もまた、白い姿態が浮かび上がって妖精というよりも妖艶なものが閉じられた中ではあれ浮かび上がっていたに違いない等と、この場の特異性?とどこかで、繋がって行くような気さえした。

はんにゃしんきょうの翻訳も、祈りと言葉の一体化をこころみたものそのものの、ぎょうしゅくされたものであることを、思い出させてくれた事であった。

個人的な思いのそこにとどくまで、はんにゃしんきょうをまだしらないのだが、くまさんがなくなったと聞いた日に、読まずにはおれなかったことを思い出し、家に帰って、また、読みかえした。



帰り際、「人形記」を手に入れ、生人形を生で見たいと思いつつ、生きたように見えるのは、膠を口に含んで吹きかけたと言うその作り手の息や生唾が、その人形に乗り移って、より人間の襞に触れる気肌を身につける事となったのではないかと思われ、なにやら妙な心持ちになる。

生人形に呼ばれてしまいそうで、もう心はそこいらを飛んでいた。ような。
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by akikonoda | 2009-10-18 22:10 | 記憶
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