二所ノ関部屋マネジャー

首つり死:二所ノ関部屋マネジャー、自殺か 大阪・茨木

 26日午前10時5分ごろ、大阪府茨木市別院町3、東本願寺茨木別院境内のプレハブ小屋で男性が首をつっていると110番通報があった。府警茨木署によると、男性は大相撲二所ノ関部屋のマネジャー(51)で、既に死亡していた。自殺とみて調べている。

 同署などによると、二所ノ関部屋は3月14日から始まる大相撲春場所のため、プレハブ小屋を借りてけいこ場にしており、マネジャーは22日から泊まり込んでいた。小屋の中の鉄製のはりにひもを掛けて首をつっていた。遺書はなかった。力士の一人は「朝に見かけた時は変わった様子はなかった」と話した。

 マネジャーは元力士で93年春場所で引退した。

 二所ノ関部屋が属する二所ノ関一門は、1日の日本相撲協会理事選挙に貴乃花親方が立候補の意思を示したことに関し、支持する6親方に対する破門騒動が起きた。


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日本相撲協会の理事選(2月1日、力士出身理事の定員10人)に立候補を表明し、二所ノ関一門を離脱した貴乃花親方(元横綱)を支持する6親方が、一門を事実上破門されたことを受け、武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)は20日の取組後、「あってはいけないこと。一門内で話し合って(理事に)ふさわしければ、誰かが推薦してくれるはずだ」と貴乃花グループに苦言を呈した。

 一門の放駒親方(元大関魁傑)らからこの日、報告を受けた。「一門の意味が薄れてきているのではないか」との質問には「先輩が作ってきたもの。伝統を何でも変えるべきではない」と述べた。

 理事長は出羽海一門の所属。二所一門の騒動については「話すべき立場にない」などと、発言を控えていた。

朝日〜〜〜〜〜〜〜〜〜


大相撲の二所ノ関一門は19日、東京都内で会合を開き、日本相撲協会の理事選(2月1日、力士出身理事の定員10人)に一門を離脱して出馬予定の貴乃花親方(元横綱)を支持する6親方に退席を求め、事実上の破門とした。これを受け、同一門は理事選への擁立を3人から現職の放駒(元大関魁傑)、二所ノ関(元関脇金剛)両親方に絞り込んだ。新たに立候補予定だった鳴戸親方(元横綱隆の里)は辞退した。ほかの一門を合わせた全立候補予定者は11人で、理事選では4期ぶりの投票となることが確実な情勢となった。

出席者によると、会合に参加したのは27親方。貴乃花親方と、力士代表で理事選の投票権のある大関琴光喜は出席しなかった。多数決を採った結果、「(6親方は)退席すべきだ」が多数を占めたという。退席した間垣親方は報道陣に「破門という言葉は出なかったが、そんな形だ」と話し、事実上の破門と受け止めた。

貴乃花親方を支持する理由について、阿武松親方は「相撲に対する一途な思いに共鳴した」と話した。大嶽親方は「(義父の)納谷幸喜氏(元横綱大鵬)も支持している」と述べた。6親方は理事選で貴乃花親方に投票する意向だが、選挙後に新たな一門を作るかについては不明とした。

貴乃花親方に同調した6親方は以下の通り(★は部屋持ち)。常盤山(元小結隆三杉)、音羽山(元大関貴ノ浪)、★間垣(元2代目横綱若乃花)、★阿武松(元関脇益荒雄)、★大嶽(元関脇貴闘力)、二子山(元十両大竜)

■二所一門 32人目の横綱玉錦が事実上の開祖。角界の本流・出羽一門が「分家独立を許さず」を長年の不文律にしていたのとは対照的に、分家独立が盛ん。48人目の横綱大鵬を生んだ二所ノ関部屋が本家で、佐渡ケ嶽部屋や尾車部屋などとともに「両国系」と呼ばれるが、45人目の初代横綱若乃花が育った旧花籠部屋を本家とする旧二子山部屋など「阿佐谷系」も勢力を持っている。一門の重鎮ともいうべき存在だった初代横綱若乃花や大鵬親方が定年退職した後は一門内での統率がとれておらず、内部でいくつかの分派が目立っていた。前回の役員改選では両国系が2(二所ノ関、間垣)、阿佐谷系が1(放駒)。


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ウィキより

1909年(明治40年)1月に二枚鑑札で5代二所ノ関を襲名した関脇・2代海山太郎は、1911年(明治41年)1月場所限りで引退して友綱部屋(前1・初代海山太郎)に預けてあった内弟子を連れて二所ノ関部屋を創設した。なかなか弟子に恵まれなかったが、苦労して玉錦を大関に育てあげた。しかし玉錦が1932年(昭和7年)10月に第32代横綱に昇進する直前の1931年(昭和6年)6月に胃癌で死去し、弟子は粂川部屋(前1・2代鬼竜山)に預けられた。

1935年(昭和10年)1月に横綱・玉錦の二枚鑑札が許可され、6代二所ノ関を襲名して現在の二所ノ関部屋の中興の祖ともいうべき基礎を築いた。当時の二所ノ関部屋は弱小で稽古場さえなかったが猛稽古により一代で部屋を大きくし、先代弟子から関脇・玉ノ海、幕内・海光山などの関取を育てた。しかし勧進元を務め、これからという1938年(昭和13年)12月に虫垂炎を悪化させ腹膜炎となり34歳の若さで死去した。

6代二所ノ関(玉錦)が現役死すると、関脇・玉ノ海が1939年(昭和14年)1月に26歳の若さで二枚鑑札・7代二所ノ関を襲名して二所ノ関部屋を継承した。戦争中は食糧確保のために部屋単独で勤労奉仕を行ったが、このことにより戦犯容疑で逮捕された。そのときの日本相撲協会の冷遇に嫌気をさして、玉ノ海は弟弟子の大関・佐賀ノ花に二所ノ関部屋を譲って、1951年(昭和26年)5月に38歳の若さで廃業した。7代二所ノ関は、先代弟子から関脇・神風、幕内・大ノ海、十勝岩、直弟子から関脇・力道山などの関取を育てた。

1951年(昭和26年)9月に二枚鑑札で8代二所ノ関を襲名した大関・佐賀ノ花は、翌1952年(昭和27年)1月に年寄専務となり二所ノ関部屋の経営に専念した。7代二所ノ関の「分家独立を推奨する」という方針のもと、大ノ海(花籠部屋を創設)、琴錦(佐渡ヶ嶽部屋を創設)、玉乃海(片男波部屋を創設)らは分家独立を目指して二所ノ関部屋に自分たちの内弟子を抱えていたが、実際の分家独立にあたっては様々なトラブルが相次いだ。8代二所ノ関は、横綱・大鵬、大関・大麒麟などを育て、二所ノ関一門の総帥となるまでに部屋を大きくしたが、1975年(昭和50年)3月に急性白血病で死去した。

9代二所ノ関は、8代二所ノ関のお通夜の晩に後継の名乗りを上げた大鵬親方が一代年寄を返上して継承するか、部屋付き親方の押尾川親方(大麒麟)が後継と見られていた。正式に後継者が決まるまで、6代二所ノ関(玉錦)の弟子で二所ノ関一門の最長老であった湊川親方(十勝岩)が暫定的に9代二所ノ関を引き継いだが、その期間は実に1年4カ月にも及んだ。

相続争いに嫌気がさした大鵬は後継レースから降り、大おかみ(8代二所ノ関未亡人)が大麒麟の後継を拒否して混乱は長期間に及んだ。結局、元関脇・金剛が8代二所ノ関の次女と婚約して娘婿になることで10代二所ノ関に決まり、1976年(昭和51年)9月場所限りで27歳の若さで引退して部屋を継承した。現在まで部屋の運営にあたっている10代二所ノ関は、小結・大善以外に関取を出せておらず、平成時代に入って以降は急速に部屋の勢力が衰えている。


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真宗大谷派(しんしゅうおおたには)は、浄土真宗の宗派の1つで、宗教法人法による包括宗教法人である。

京都府京都市下京区烏丸通七条にある「真宗本廟」(通称、東本願寺)を本山とし、事務所を「真宗大谷派宗務所」と称し、同地に置く。

別院、教会を含む所属寺院数は、約8,900寺[1]。「大谷派」・「大派」・「谷派」と略称される。

浄土真宗系の教団で結成する「真宗教団連合」に加盟し、加盟団体と相互の連絡・提携を取る。また同連合の事務総局は、真宗大谷派宗務所内にある(2009年現在)。

宗派名は、「浄土真宗本願寺派」(通称、西本願寺)との区別の便宜上、通称「お東さん」・「お東」と呼ばれる。同様に、本山の通称[2]である「東本願寺」を宗派名の意で用いる場合もある。

なお、東京都台東区の「浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺」を本山とする「浄土真宗東本願寺派」は、宗派の維持・運営をめぐる見解の相違により、1981年に真宗大谷派から離脱・独立した宗派で、両者は別の宗教法人である。(⇒お東騒動)

宗教法人としての規則は、『宗教法人「真宗大谷派」規則 』である。同規則第3条に、真宗大谷派の最高規定は『真宗大谷派宗憲』(以下、『宗憲』)としている。また『宗憲』第5条において、『宗憲』を最高規範と定めている。本ページは、『宗憲』に定められている事項を中心に要約・引用し、記述する。

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何か、おかしい気がしているのは、自分だけであろうか。

合掌。
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by akikonoda | 2010-02-26 17:02 | 記憶
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