映画「弓」と「空気人形」

前から気になっていたがずっと見れなかった、「弓」と「空気人形」をようやく見る。
映画を見る、ただそういう気持ちになれなかったのは、震災があったからでもあるが、自分の中で何かが変わったのかもしれない。

暗転にしろ、空転にしろ。
何かが確実に変わったような気がしたので、見れたのかもしれない。


キム・ギドクの「弓」。

時々釣り客を乗せたり、矢を放ち占い等もして、古い船上で生活している、弓の名手のくたびれた船主の老人と、弓矢占いを紐解く幼い時に連れ去って来た年若い美しい娘の物語。

寡黙な老人の目的は、娘との結婚であった。

釣り客として父親について来た若者が現れ、老人の思いの成就は妨げられ、連れ去った過去も若者によって暴かれることとなり、少女は老人の船から離れようとする。

老人は、少女と自分を繋いでいたかのような、命綱のような、へその緒のようなロープを、小さな母船とそれよりも小さな舟を繋がれたロープを、首に巻き付け自殺を図るが、少女がそれに気付き、老人のところに舞い戻ってくる。

そうして、若者が見守る中、二人は結婚の古式ゆかしき儀式を恙無く行い始め、今度は小舟に乗って、新婚旅行さながらに母船から離れる。

娘との間接的な性交の象徴として、老人の入水前に放たれた矢が、あるはずのない見えないもの(死んだ老人)との交接の後に少女の白い服に突き刺さり、処女喪失を思わせる鮮血で染められ、「何か」が終わったことを告げる。


この監督は、いつも、ある限られた空間(世界とも言ってよい)において、余計なもの、道徳あるいは宗教のようなものを越えた条件のもと、古めかしくも新しい今と昔が混在した中の揺らぎ、少女の乗った弓矢占いのブランコの揺れのような緩やかなバランス感覚と色感覚と時間感覚の「凝縮された生」の物語を淡々と見せつける。




是枝監督の「空気人形」。

生/性を越えようとしている物語か。

無機質な硬い人形ではない、人工の柔らかさを持った、しかも空気を入れないとふくらまない「空気人形」の正体はダッチワイフで、滑稽な程、エロスのはけ口である。

行為のあと、その空気人形の局部を洗う男は、ファミレスの雇われ店長であり、その職場の愚痴を着せかえした空気人形に語りかける。
時には、部屋の中のお手軽なプラネタリウムの星座を指差したりしながら疑似恋愛を演じて。

現実の彼女とは別れ、応えもしないでただ動かずにじっと聞き入っているように見える空気人形に自分のしたいことをして、満足している様に見える。

いつの間にか、心を持つようになった空気人形とも知らず。

空気人形は、生まれたての子どものように、興味があるものに吸い寄せられていく。

架空の物語の宝庫のようなレンタルビデオ屋で男のいない昼間に働くようになる。

その店で知り合った同僚の男に淡い思いを抱くが。
働いている時の不意の事故で空気が抜けてしまう。
その同僚はビニールテープで割けたところを取り繕い、その上、自分の息を空気人形/間に吹き入れ、彼女をもとの動き回れる状態に戻す。

男も又、空気人形のようなものであったからこそ何事もなかったように、空気を吹きかけ息を吹きかえしたように見えたが、男は切ったら血の出る生身の人間であった。

切り口をビニールテープで貼っても血は空気のように止る訳ではなかった。

同僚の男は死んだ。
ゴミ出しのビニール袋につつまれた死。

空気人形も心を持ったことで、死んだ。
りんご(心あるいは生の領域)と空き瓶(空気を孕んだ硝子の器あるいは無機質の化身)のようなものに囲まれた。ガラクタの中の死。


境界線上でもがく彼/女らの代わりは、又、何事もなかったように、補充されていく。


彼/女らは、果たして、生/性を越ええたのであろうか。

もしかして越えたかもしれない瞬間に、越えたとたんに、死が、終わりが、鎌首を持ち挙げ待っているような。

唐突に物語の終わりを告げた。

空気が抜けてペシャンコになったように、ある宇宙の終わりも又,このようなものなのかとも思える、沫が弾けたような唐突な終わりを見た。
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by akikonoda | 2011-05-11 00:14 | 記憶
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