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全身小説家〜散歩者の夢想(ランティエ叢書)〜より

 『全身小説家』という映画に、埴谷雄高が出ていた。

最初は気づかなかったが、どこかで見たことのある老人だ。と思ったら、酒を飲んで呂律が回らない、頭を揺らしながら、目はどこか虚空を見ているように、とうとうと話をする場面を見て、埴谷雄高だと分った。

以前、なにかのドキュメンタリーで、薄暗い自宅で、赤い血の入ったようなワイングラスを揺らしながら、自身も揺れながら、インタビューに答えている埴谷を見て、いつまでも死なない吸血鬼のように見えたのを思い出した。
 彼は確かまた、そのドキュメンタリーの中で、生命の謎が分るまでは、子供を作らないといっていたが、結局、分らないままだったようだ。

「なんにもない」と、死んだ今でも、どこかでひっそりと、吐き捨るようにつぶやいている気がするのはなぜだろう。
 どうしても、彼の未完の『死霊』に出てくる「のっぺらぼう」でなく、顔を持った、血のような葡萄酒を含み、暗闇にじっと目を凝らす吸血鬼じみた埴谷老が、死んだ今でも、言葉の中に、自身の夢想の中に、じっと身を潜めて、どこかで待っているような気がするのだ。
 そうだとしたら、何を待っているのだろうか。自分と波長の合うものとの対話。それとも、単に自分の血を受け継ぐものを待っているのだろうか。ただその夢想に引き吊り込み、同じ死霊になって、風のように何かを叫びながら、一緒に彷徨う同胞を探しているだけなのだろうか。

 そういえば、埴谷雄高の本名は、般若豊だそうだが、穿った見方をすれば、般若的さとりの境地を持つ自身と、能面に見られるような般若の顏をもった怒りの化身のような実行動を担う自身を、埴輪のような無表情なのっぺらぼうな面持ちの、中身は空ろなままの人型に見立てて、動じない思想を形作ろうとしたのかもしれない。
 長い年月地に埋まっていても、いつかだれかに掘り起こされることを夢想しながら。

 埴谷自身もカフカやポオ、ドフトエフスキーを受け継ぎたいと自負しているようにも受け取れる言動を見るにつけ、彼も又、全身全霊小説化していて、苦悩し続け、書き続け、夢想し続けたに違いないような言葉、彼の核心を突くような言葉を見つけた。

「文学は、この生と存在のなかに裸かで立っているものが茫洋たる答えを暗黒へ向かって発する一つの手段にほかならない。そして、このような態度をもって、一つの核が渦状星雲へ膨らみあがる長い途上の中間に立てば、さながらパスカルの前に現れた課題のように、その文学はもはや何時の時代でも古くも、また、新しくもないであろう」

ルソーのように「孤独な散歩者の夢想」を続けている埴谷が、一つの核となって、そこここを漂っていることを、夢想している自分がいた。
by akikonoda | 2006-08-14 16:38
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