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アフマデネジャド大統領の日記と女性と性の問題

 アフマデネジャド大統領の日記みたいなブログが開設されたと言う。
 かなり開かれたことをする。

 去年の夏にイランに仕事の関係で行った時、通訳の方に、女性はバイクに乗っては行けないことになっていると聞いて、中型免許を学生時代の若げの到りで手に入れ、一応バイクに乗ろうと言う気持ちがあるが、体力が無くなってきつつあるので、バイクに触っていない自分ではあったが、イスラム世界のそういった女性を特別視する姿勢に、憮然としたのは確かだった。
 しかし、その後、女性も乗れるようになったと聞き、状況が変わりつつあるのかなと思い直した。

 今年の4月に再度、仕事でイランに赴いた時も、女性の服装の乱れを正すような、校則のお達しのような議会決議が出たとニュースで流しているのを聞いて、緩んだと思ったら縮む轡(たずな)に、翻弄されるイランの女性が、不自由そうで、息苦しさをと憤りを感じていた。
 しかし、やはり、その後、あらゆる方面からの反発が強かったのか、その規制もまた緩くなったと聞いたので、今、イランは過渡期なのだと思わずにはおれなかった。

 さらに、残念でならないなことであるがイランで少女が不純異性行為で処刑されたと言う記事を見つけた。
 それに対して、夏の盛り、不純異性行為にふける老若男女の群れを抱えた日本やエロス万歳の自由主義国は平和なのだろうが、処刑されつつあるのは、魂のありかのようなものなのかもしれない。
 そう言った時代を生きていて、自ら首をくくっているのは生真面目な人達でしかない。
 いっそ、寺山修司のように開き直れたらいいのかもしれない。
 誰とでもやりたいときにやってなんでいけないの。と。
 実際の寺山は他のやりたいことに忙しくして、そのような体力と暇は無かったかも知れないが。とはいえ、色々考えて、色々無茶もやった彼の言葉に、微妙なモラルを持った人は、魂のようなものだけでも開放されるような気がする。もし、あればの話ではある。

  ちなみに、日本の性教育は今、自由度を益し、性は楽しいものという文面もちらついていると、さる団体のチラシで見たが、そのチラシの中で、中学一年生の兄が小学生の妹を妊娠させたと言うのもあった。
 これは性問題というよりも、むしろ近親相姦の問題である。
 微妙なモラルなど吹き飛ばされる。
 文化人類学的側面から見ても、原初の人間が家族を形成して行く、子孫を増やして行くなかで行われたであろう近親相姦的、神話的過程が、今も秘密裏で行われている事実に愕然とする。
 特に、家庭内の暴力、ここでは特に性暴力に関して、NOを言える環境の整備と、それを予防する教育は避けて通れないところに来ていると思われる。
まさかそんなは通用しないのである。
 性行為は楽しいだけじゃなく、責任があり、特に、近親相姦などは責任以前の問題で、遺伝的にも危険であることを、少なくとも伝える必要はある。
 二人の息子がいる自分としても、性問題は避けては通れない問題である。
 
 そういう思いを巡らせている中、ふと立ち寄った古本屋で、『動物の性行動』なるものを見つけて、これは手に入れろと言う無意識のなせる技かと思い、思わず手に取ったのだが、それを見た連れ合いに、思いきり引かれてしまったので、本棚に戻してしまった。
 今度いった時にまだその本があれば、ためらわず手に入れ、性行動の意味にどっぷり浸かってみようかと思う。

 そのやりとりの合間に、クーラーの風で暖簾が捲れたのか、向こうのアダルト部屋のおじさんと目がちらっと合ってしまい、同類哀れみの令を受けたような、なんとも、居心地の悪い思いもしたのだが、知りたいものは知りたい。という欲求は人間の本質なのだと、思わずにはおれない。微妙なモラルは残しておきつつ。 

 さて、話は舞い戻って、イランの顔、果てはイスラムの顔になりつつある様に見える大統領は、イランやイスラムの存在感を指し示す道標として、驀進中といったところであろうが、
 『禅語録』の中の言葉、
「此の教は本より諍うこと無し、諍うこと無きは是れ道意なり(対立無いところこそ道のポイントだ)」
のようにいかないものか。とも思う。
  宗教者でも、政治家でも、何々主義者でも特にエロス至上主義者でもない自分が、言うのもなんだが。

 言えることは、開かれたのは、一方的な自分の訴えたい言葉の窓口なのではなく、インターラクティブなものであることを望む。ということか。
 どこの国でも(微妙な)モラルは残しておきつつ。
 
by akikonoda | 2006-08-14 18:11
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