インドを旅した際に訪れたタゴールの館であったが、ほとんど何もなくがらんどうであった。
まるで、略奪され、誰もいないフセインの宮殿のように、静寂が影法師のようにそこここにあった。
しかし、風通しのよい館で、何も余計なものがないその館は、タゴールの内面にある襞を押し広げるような、彼の内面世界に迷い込んだような気分になった。
無駄なものがないのである。
雄弁ではないが、確かな生と死を匂わせる何かが、そこここにただよっているのである。
最近、コクトーの告白(友人への手紙)を読み直してみた。その中に、文学は文学の為にあるのではなく、何か(コクトー的には神)を思う行為であるというニュアンスの件があったが、タゴールの詩も、コクトーとは生き方が違うにしろ、その何かを思い謳う行為として、同じ性質のものがある。と思わずにはおれなかった。
ただ、ただ祈るように、なくしたものを思い、見えないものを謳うことができれば。と思うことがある。
タゴールは、演劇、歌、詩、学校を造るなどあらゆる手だてを尽くして、自分の中のものを具現化していったが、その目まぐるしい中にあっても、いつも、透明な何かと向かい合う時を持っているということは、利己的なものを越える何かと対話することである。と言える。
それを見失っている時は、自分にも他人にも、たぶん届かない類いのものなのだろう。