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『どろん虚』

六 軟硬の波を越えて

 道造は考えた。宇宙の果てはあるのだろうか。と。

 宇宙は果てしなく続いているに違いないと見る研究者もいるが、道造のイメージとして、漠然と思い描いているものに、時がきたら、次に進み、より軽やかになって行くといった性質を持つひとつの宇宙成長モデルがある。

 地球上の物質の性質として考えられる一つの現象として、軟らかいものから硬いもの、そしてまた軟らかいものへ、行きつ戻りつしているようで、やはり、その場のものを取り込んで、少しづつ性質を変えながら、じわじわと世界を広げて行くような、次の別次元に移り変わって行くような性質があるのではないか。というものであった。

 軟らかいものと硬いものは、所々交じり合ってはいるが、ざっくりと段階として捉えるならば、マグマ→海底→(海)水→陸地→空気といったように、物質的な軟硬を交互に繰り返し、その場の状況、環境をうまい具合に取り込みながら、徐々にではあるが、その性質を変えながら時間軸的にも、空間軸的にも進み、拡張して行くと言うことである。

 まず、最初に、小さな小さな地球上の物質の性質として、燃えるとろとろしたマグマの芯(核)を漂うあらゆる物質を原点とすると、次に、海底となる比較的硬い地(殻)層に行き着く。
 さらに、軟らかい(海)水の層と空気の層になるが、これらは相互循環を繰り返す特徴を持ち、地球の芯よりは少し緩やかな圧力負荷が掛かっている。そして、陸地では、海底と繋がりを保つ、地球の芯に向かった重力に引き付けられたままであるが、水圧よりはより軽やか圧力が掛かる。

 それらの環境にのっとって、生物もその中で姿を変えて行くわけであるが、考えてみると、人間の浅い歴史観からしても、軟らかいものから硬いものへ、そしてまた軟らかいものへと言う一連の思想、思考、文化、芸術の流れがあるようにも見受けられ、この軟硬の繰り返し、「軟硬の波」といえるものは、地球上で重力に捕らわれたもの達の、ひとつのうねり、流れとみていいのではないかと、思われた。端的に言えば、正反対、あるいは対極の性質のものを、行ったり着たりする、あるいはグルグル回るというイメージである。以前、サイバー大学でかじった、老子の言うところの、道(たお)のようなもの。といえるかもしれない。

 軟硬を繰り返す、ある物質の塊としての人間が、地球の重力から開放され、宇宙に行くと、どうなるであろう。地球上と違い宇宙の中では軟硬を繰り返すかどうかはわからないし、別の性質の波があるかもしれないが、今とは違った物質になる可能性はある。と道造は考えている。そして、それは、軽やかさを増すに違いない。と。

 もうすぐ、地球を出発しようとしている、ルシファーの姿を見ても分るように、必然であると自らの姿を変化させ、今の次元を越えて行こうとする、人類と言う小さな枠では収まり切れない、宇宙の大きな指向性を感じる。

 物質の記憶は遠い宇宙の始原を指向しているのは、少なくとも人間と言う塊に関しては間違いなさそうだ。

 仮に宇宙は膨張しているという説にのっとって、宇宙の果てと思われる場所が、宇宙の始まりだとすると、人間と言う塊から変わったものになった物質が、そこに帰って行くにはどうすればいいのか。

 道造は考えた。次元の壁のようなものを越えて行くしかないのは、目に見えているが、もし地球を飛び出て、宇宙を彷徨い、宇宙の果てまで行った物質があるとしたら、それはたぶんもっとも自由で軽やかなものであるに違いないと。
 爆発したら、その次元はお終いになりかねない、核、そのものだ。

 それにしても、俺達はやけに重すぎるよな。お婆。と道造は独りごちた。

 核を背負って、宇宙の果てまで波に漂うことになろうとは。一体誰が考えるのだ。

 誰でもないかもしれないが、誰にでもある、核の記憶、あるいは記憶する核かもしれないな。と、道造は考えた。

 しかし、もしかして、道造の核が宇宙の果てに辿り着いたとしたら、お婆の核も背負っていることになるな。と、思った。
 今ここでも、実は、お婆の核は俺の中に潜んでいるのだ。どこかで揺れながら。もしかして、波に耐えられず溺れかけているかも知れないな。いっそのこと、お婆の記憶と言う核を積んだ部分だけでも、波に紛れて海の底にでも、とっとと帰ってくれたら身も心も軽やかになって楽なんだがな。と密かに思う道造であった。
by akikonoda | 2006-09-13 14:03 | 小説
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