昨日、映画の中の自分を見た。
最初は、黒い影のようであったが次第に明反応のように顔の輪郭がぼやけながらも、うっすらと認識できるようになっていた。
演出であるのだろうが、なんとなく、自分でいて自分でないような、言って見れば、自分のドッペルゲンガーに出会ったような不気味な後味を残したのだ。
確かにあの時、言葉を叫び続けていた。
どこかに届くようにと思いながら。
ふと、今の自分が気になり出した。
実は、今日、詩のボクシングの告知の為、めんたいワイドという夕方の番組に出させて頂いたのだが、そこで、イヤホーンを付けて番組進行を聞きながら、目の前にあるテレビモニターも見せてもらっていた。
自分達が、告知する場面のすぐ前に天気予報が流れていた。
明日は雨かな。
と見つめていると、横のアナウンサーの方に、それでは、詩のボクシングの方どうぞ。
と言われた。
いつの間にか、自分達が立っている場所に、スイッチが切り替わっていたのだった。
モニターには、今ここで告知している自分がいて、今正に読んでいる自分を感じながら、目の前のモニターが反射板のような役割をしているような、意識が行ったり来たりしているような、やはり、少々違和感を感じていた。
やはり、誰かに届くようにと呼びかけながら。
映画においては、何度でも、繰り返される戦争反対を叫ぶ抗議中の自分であるが、告知した自分は一瞬で消えてしまった。
生のものと煮詰めたもの。
反射神経のようなものとその神経が出来上がり安定した反応を示すもの。
の差と言えるかもしれない。
時間をかけた分だけ、そ(れ自体)の生命力は、生き永らえるのかもしれないが、一瞬が焼き付く時もある。
そのものに対する思いが強い程、残っていくものなのだろうか。