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憂国祭からの徴(しるし)

三島由紀夫の彫刻のような真顔の複製の黒白の張り紙を街角のあちこちで見つけた。

「憂国論」についての講演会のようなものがあるらしい。
確か、憂国祭。と書いてあった気がする。

三島の憂国論、文化革命論のようなものをリアルタイムで知らない自分にとって、三島は永遠に死んでしまった人なのであるが、すでに死んでしまっているからこそ、その真顔の複製は、亡霊のように、この時期になると立ち現れてくるような気がするのである。

そういえば、最近、ありすとてれすの彫刻がギリシャで見つかったという。
今まで見つかったありすとてれすの彫刻には、なぜか、鼻が存在しなかったということである。今はなき、ありすとてれすの顔には、鼻だけ存在しなかったというのも知らなかったのだが、鼻はなくとも彼の言葉や思想は末長く掘り起こされる類いのものであるだろうが、とりあえず、今回の発掘での新たな発見として、彼の鼻はわし鼻だったことが確認されたらしい。

顔は、その人の存在を左右する大きなメタファーのようなものでもあるが、わし鼻だったからといって、何かが変わると言うこともないが、何かが変わる可能性はある。

彼の鼻は、物質的?形状的特徴として彫りが深いことによって空気を多く吸えたに違いないが、この時期に、完全な顔のまま掘り起こされたことに、意味を無理やりくっつける必要もないのだが、なぜか無性に感じてしまうことは、全体性の回復。ということなのである。

最近、今まで隠されていたり埋もれていたりした足りないものが、補われる時期なのではないか。
と、思うことが重なったからかもしれない。

せんだってのユダの福音書の発見もしかりである。

今まで抹殺されていた、その福音書の存在が立ち現れてくるには、数奇な運命を待たなければならなかったと言うことだが、その埋もれた存在が見つかったことで、ゆがみきった世界の全体像が、やっと回り始めたというか、見ようともしなかった欺瞞的で一方的な正義性のようなものの向こうには、やはり同じようで、同じでない世界像が提示されうるのである。

西欧文化を支えてきたといっていい、ユダを完全否定した世界像が、ユダのイエスを見る視点、つまりイエスの今まで語られなかった全体像を回復することによって、再認識、再評価、再出発の傾向、ある意味でキリスト教的世界像が指し示してきたものに、揺らぎを感じ取れるような気がするのだ(キリスト教の正統/異端の相補的関係性の獲得)。

そことまた連動して、世界がスパイラルしていく過程を追っていくならば、単純化してしまうのには抵抗もあり、もっと他の多様性を無視するのははばかられるのであるが、あえて拮抗している大きな流れとして提示できるものの中に、キリスト教的世界像とイスラム的な世界像がある。

その相対的ともいえる世界、言ってみれば、欲望拡充型世界と禁欲拡充型世界が、相補的なものとなる世界への移行を促す流れが、この時期必要に迫られているのではないかとも憶測できるのである(キリスト教/イスラム教の相補的関係性の獲得)。

そこで、相補的流れを確保できたとし、視点を宗教的思想から、すこしずれながらもやはり連動している経済的思想の視点から見ると、環境破壊などをともないエネルギーポテンシャルが枯渇しつつある様に見える消費一辺倒のもの、物質の波に流され続ける民主主義的、資本主義的なものとは逆のものといえる流れを補いうるものへと緩やかにシフトする可能性があり、その相補的世界は、環境を破壊しつくことなく、ほどほどなリサイクル社会、世界、宇宙を目指すものであると予想している(消費主義/環境保全主義の相補的関係性の獲得)。

ここで、相対するものとして、必ずしも共産主義や社会主義ではないと断っておく必要はあるだろうが、自分としては、今までの偏った流れのバランスを取り戻しつつ、取って代われるもの、より洗練されたものを、革命的存在として捉えていきたいと思う。

そして、相補的なものは、最終的には、二つの大きなものだけの統合でなく、もっと、この世に存在するもの、すべてを内包するものとしてスパイラルしていき、そう言う過程を経ることを繰り返すことによってできるものこそが、多様性の認識、確認、許容こそが、全体性であり、調和的状態といえるものなのである。

正に、それを、陳腐な絵空事ではない、真に革命的なものとして捉えていきたいのである。

とりあえず、自分は、大なり小なり時代の硬軟の波、あるいは相対するものの繰り返しの波のようなものを感じながら生きているのだが、その交じり合ったところで、大なり小なりの革命的スイッチの作動が見られることを望むところなのである。

そして、その波は絶えずスパイラルして、うずたかく?進化し、洗練され、高められていくことを強く希望するのである。

革命の電灯(伝統?)へのスイッチは、何かが(誰かが)押さないとそれを見ることは出来ないのであるが、その存在は、暗闇の中で、どこかに存在しているかもしれないし、存在してないかもしれない。

あやういものでしかなく、心もとない、すでに死んでしまっている革命の灯(ともしび)?でしかないかもしれないのだが、今の状況を凌駕するような、止揚(あうふへーべん)できるような、何かが変わるようなことを、どうしても望んでしまうのである。

とにもかくにも、掘り起こされずに、存在していたものが、闇から闇へと隠微されていたことが、表に出てくることが、必要な時期であるという、「徴」として目の前に横たわる単なる現象を読み取ることによって、掘り起こされたありすとてれすの彫刻や偶然街角で見てしまった彫刻化した三島を、自分の中で再確認する時期とも重なるように思えるのである。

さて、忘れ去られていた遺物が掘り起こされたように、三島の固まった美意識、刃を腹に刺して生々しさを消し去り、息ぐるしくも艶めかしい美意識が封印されたままではいられず、その魂のようなものを解き放つものが憂国祭?なのだろうと予想はできるものの、その志向性を忘れない者たちが受け継ぎ、追体験する儀式のような場としての祭り、奉り、祀りが受け継がれていき、鎮魂祭のような役割を果たして、どこまで続いていくのだろうか。

そこで、相反するものの波、あえて言うなら美醜の波のようなものが、とうとうと流れているのかは、定かではないのだが、日本の奥底に蠢くものとの接点が、見えにくく隠されたままの様な時代を、もし、三島が生きていたとしたら。と、ふと考える。

彼が美醜の波のようなものを越えないことには、やはり、その波にのまれて死ぬしかないのであろうか。と思えるのである。

ここから、自分としては、幽谷論か夕刻論あるいは「友国論」を展開していきたいところだが、うすらぼんやりとしていて、先はまだ見えていない。

しかし、はっきりと見えないからと言ってあきらめるのではなく、これから形作り、展開しうるものを模索し、実行し、あきらかにしていく時期であるのは確かであろう。
by akikonoda | 2006-11-13 15:54
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