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心脳問題〜意識について〜


今日、茂木先生のお話を聞きに行った。

福岡の方に来られると聞いたので、生の質感というのを味わいたいと思い、楽しみにしていた。

それにしても、心脳問題において、意識の問題が大きいと思うのは確かであるが、改めて茂木先生のお話を聞いて、この問題の難しさを、肌で感じた。

質疑応答の時、意識の話に触れられたが、人間とゾンビの違いは意識があるかないかの問題に因っているとしたら、自分は、お話を聞いているうちに、ゾンビに意識がないと言う前提そのものに疑問が沸き上がったので、行き詰まりを感じ、答えは出ないままで、出口なし状態になった。

頭の中の色々よぎるものが、言語化できない問題にぶつかって、どうすることも出来ない、せっぱ詰まった状態である。

人に何か言おうとして伝えられないもどかしさは、後で、なんとか消化・昇華するしかないが、言おうとしたことも、いまだに混乱している状態でもある。

が、分らないなりに言語化していたら、いつかは先に行けるかも知れないので、分らないことは分らないこととして、書いてみようと思う。

質疑応答の時、頭の中をぐるぐる巡っていたのは、脳は、生きているもの、死んだもの、あるいは生れる前のものをもひっくるめて、意識の源であるという漠然としたイメージであった。

黒白のポメラニアン犬のドットがある時、はっきりとした輪郭となって目に飛び込んできたりする気付きや、老婆と少女のどちらにも見える絵などは、認知心理学において、すでに使い古されてはいるが、ローレンツの刷り込みにおいて見られるような、動物における認知行動の研究・観察や、赤ん坊の認知行動の研究・観察等において、生物には意識があり認知できるという認知心理学的アプローチに、脳という要素が加わり、いままで以上に、何かが見えてくる可能性が拡がる一方、複雑化してもいるようにも見受けられ、そこに、期待してもいる。

認知心理学の分野の気付きの問題と、いわゆるアハ体験は同類のものであると思われるが、どこの地点で意識=気付きが起るかということがより分かりやすく、反応点が分析しやすく改良されてはいるものの、もう一方では、その被験者の、その時の心理状態やその対象に対する経験知、更には文化、文明などの要素が含まれてくるのは当たり前のことなので、そう簡単には判断できないものであるということ。

さらに、ペンローズのホムンクルスの小人の話ではないが、どこの脳をどう使うかというマッピング的なものだけでは不十分で、もっと、意識そのものの捉え方を、生命哲学的にも深めていく必要がある。という事に繋がっていくのも理解できる気がした。

その先には、ライアル・ワトソン的、あるいは、ユング的な意識・無意識もひっくるめた方向性も研究対象として見据える必要が出てくる気がするのだが、今も昔も、それを言ってはお終いかと言う感じで、妙にタブー視されて、そこのとこを言語化するのは、至難の業であるのも、先例を見たら分るので、そこまでは、求めるつもりはないが、先々、突き抜けられるのかもしれない。とも漠然と思っていた。

こういったことは、その場にいないと、言語化しようとすることも無かったかもしれないので、その場を自由に開放し、伝えようとされた方々に心から感謝するとともに、どこまでも、突き詰めてほしいと切に願う。

分らないからこそ、考え続けることは、苦しくも楽しいことではあるが、独りで見えない意識と格闘し語ることの大変さを身に染みて感じた。
by akikonoda | 2007-02-20 00:48
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