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ペルシャ文明展によせて



 父の容態もぼちぼちであるが、何かと人騒がせな人であるから、介護する方も、ちと疲労の色が隠せない状態であった。

 子供たちにも、ずいぶん、寂しい思いをさせていたので、連休中に、どこに行きたい?と聞くと、どこでもいい遊べるところ。という。

 ということで、気分転換も兼ねて、自分の好きなとこも混ぜてもらって、海と、福岡に来ていたペルシャ文明展に行った。

 アケメネス朝ペルシャの秘宝や遺跡の一部のレプリカがきており、どれも現地の国立博物館でみたはずのものであった。

 しかし、目の前においてある、派手めのライオンの金細工の杯など、覚えていてもよさそうなものであるが、あまり印象に残っていなかったのが、不思議である。

 ディスプレイで、これだけ、ものの見方も変わるのかという事実は、理解したように思う。

 暗闇に浮かび上がる財宝に光が注がれているだけで、心なしか特別なものにみえてくるのである。


 怪しげなマスクをことのほか気に入ったせがれたちは、何度も繰り返し見に行っていた。
(参考映像;ババアゾーン)


 ペルセポリスのレプリカは、やはり、時間を感じられないというか、何か物足りなさを感じてしまった。

 現地で見た物は、風化されながらも、そこに時をとどめたまま、残ろうとしている、建物を覆う空気のようなものが感じられた。

 それを使っていたものの細胞の片鱗が、こびりついているというか、そういうものを、生物や植物は、知らず知らずのうちに、感じ取り、伝達してきたのではないか。などと感じながら、見ていた。

 もしかして、ものに魂が宿るということは、そういう類いのことではなかろうかとも思いながら。

 何度も時や場や空気や人やものが重なるうちに、その「場」に残る人肌の記憶のようなものが、うっすらとであれ、どこかに残っていくのであろうと。


 印章も、今読んでいるシュメール時代の文献に出ていたものと似通っており、面白く拝見した。
 
 粘土状のものの上を、予め彫刻を施された円筒状のものをころころ転がして、ある文様を映し出し、封印の役割もする印章は、手紙を送る場合にも、よく使われるものであるが、書き換えられたりしないようにという配慮からも生まれたもので、昔も今も、そういった防衛本応が働くようになっているのは、同じである。などと思いながら、封印されることもなく、開け放しの日記を書いている。 

 血の気は多いが、人肌を感じることができるかどうかは、よくわからないまま、今日もまた、書いている。


 つわものの ゆめのあとにも ひとのめが そそぎかさなる ものがたりあり
by akikonoda | 2007-05-09 18:27
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