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エロスとアイドルと戦争と家と 



 言葉の持つ曖昧性は、少なくとも、「音」を媒介にした、存在形態によるものが大きく関わっているものと思われる。

 例えば、エロスという言葉を書くにしても、自分は、なにがしか音を世界に対して発する訳ではないが、頭の中で、一瞬にせよ響かせているのは事実であるので、より表現の適正を求めるならば「音的」なものを媒介にしたと行った方が、より近しいものになるであろう。

 「エロス」という人を妄想にかき立てる言葉から、エログロナンセンスという言葉が、頭の中の検索結果で一番になる(自分はけっこうその傾向がある)といったものがいる一方で、エロスとタナトスとか、対になって現れるものもいるかもしれない。
 あるいは、言葉だけではなく、その対象を、具体的に持っていきたい人にとっては、実体を持った「あいどる」、あるいは「象徴」等と言われるものに、そのエロスは、投影されるのであろう。

 子供のアイドル、大人のアイドル、それぞれ、あるのはあたりまえなので、とやかく言うこともないし、とやかく言われることでもないので、ほっといてほしいと誰しも思うところであるが、何をアイドルとして持つかで、そのアイドルが、その人の鏡、もっとも,その人が求めて止まないに姿として捉えられることは、間違いないことである。

 いずれにせよ、こうやって言葉をつれづれ書いていることも、具体的なもの、時には自分にとってのアイドル的なものを書いていたりもする。アンチ〜といったこともあるが。

 書くこと、あるいは、何らかの形で表現することが、その表現者であって表現者でない、見えているが捉えきれない、なにものかを映す鏡となっているのは確かであろうから、それ相当のものをさらけ出すということは、それなりの覚悟がいることでもある。

 見られている。響いている。よかれあしかれ。


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 最近は、このブログで温かい言葉をいただく一方で、政治的なことを書くとなぜかここで公開するのもおぞましいエログロナンセンスなセレブ乱交にどうぞとか、人妻も人の子だからみたいな(そんなこと、いわれんでもわかっとるがね)脅迫まがいのメールが届くことが続いているので、妙な勘ぐりもしたくなるが、何かを声を上げて言うことには、それなりの覚悟はいるし、その反発もあると肝に銘じている次第であるが、それぞれのアイドルや象徴的なものを、読む方/読まれる方が投影するのは、致し方ないし、言葉を綴っていきたいものとして、言葉が足らず、誤解される場合も多々あるということを覚悟していこうとは思っている。

 いずれにせよ、ただの嫌がらせ目的のメールなどは論外だが、その人が発したり受け取ったりすることは、その人にとっての事実であり、また真実でもある時もあろうから、それは、自分にとって本意とは違うように解釈されても、もはや、どうすることもできない。

 それぞれの象徴であり、それぞれのものであるのだから、それぞれの受け取り方もまたあるのだろうと、それを肝に命じ、身を引き締めることしかできない。

 名前を出すことにも、抵抗が有ることは有ったが、言いたい放題言っている手前、責任逃れになるかと思い、よかれあしかれ、そうした次第である。

 責任は自分にのしかかるので、それだけ、言葉にも重しをかけることにもなり、凝縮できるようにしていきたいものであるが。


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 さて、このエロスという言葉、あるいは概念、またはエロスに直結した行動は、自分にとっては、やはり、やっかいなものである。

 それゆえ、なんとか、わかりたいとも思うことである。

 エロスという言葉に付着するものは、生物である以上、底知れぬものが有るだろうし、それぞれのエロスが有るのはもちろんであろうが、政治や経済、軍事、身近な世界でも、エロスという欲望に、よかれあしかれ突き動かされているように見える事件を見かけると、フロイトの言葉が、身につまされている昨今である。
 
 以前、読んだ辺見さんの本で、歴史上、戦争等につながったり、暴力的な世界へとつながったりする事件の裏には、なぜか、エロス的事件が、起こっているのを、調べているを見て、なるほどと思ったことがある。

 たぶん、辺見さんも、戦場近くをうろついたことが有るからだとは思うが、この方のエロスは、どこか乾いて、どす黒さを漂わせているので、かなり、自分の持っているエロス概念?あるいはエロスとタナトスが対になった概念に近いと思れ、真美善を通り抜けた?か、その概念の対極にあるのかもしれないとさえ思われる。

 視覚イメージだけでなく粘膜のようなものが怒濤のように流れるエロス的なるものは、確かに、同じ匂いのする森山大道の写真のように強烈であるが、両者とも、人を無理に勧誘したり強制したりしないで、自分の内面をも、その言葉や映像において、無惨なまでに、むき出しにしているようなところが、むしろ、潔い。


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 エロビデオ的世界は、もっと単純でストレートすぎるほどストレートであろうが、誰かが、興奮するような意図が働いているから、かえって作為的なものが感じられる。

 まあ、そんなこと、どうでもいいことではあるのだが、若くして、目覚め?てしまい、暴走の果て、未成年で子供を産むという女の子や男の子が、目の前にいるとなると、やっぱり、ストレートに行動でエロスに走るものには、警戒を持つ。

 ちょっと待て。と言いたくなったは、最近、そういう生々しい話を聞いたからである。

 ものわかりよく、子供を生む人の意思を尊重して、人ごとだししょうがないという人は、意外と要領よく世の中を生きていくので自己責任でいいかもしれないが、人ごとでなく生まれてくる子供は、はて、どうしたらいいものか、途方に暮れるのみである。

 まあ、子供が、酒池肉林状態になっても、何とも思わない家庭なら、それはそれで、世も末なのであろうが、自分には、どうも居心地が悪い。

 生きづらい。

 見ているのも、聞いているのもしんどい。

 見なければいいのだろうが、どうしても、目に入ってくる目の前の現実は、しんどい。

 どちらにせよ、生まれて生きていく本人からすれば、いらぬお世話で、なにより、しんどいのは、生まれてくる子供であろうが。

 偽/善も偽/悪もへったくれもないが、しんどさはこどものうえに確実に残る。


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 言葉は、具体的な行為をされたり、みせつけられたりすることより、強制力や暴力性が薄く、どこかに、空想や隙間があるから、まだ、クッションがあるように思う。

 剣道をしたりして、身体的快楽よりも、どちらかというと痛みを感じてきたようなところがある自分にとって、言葉は、それを超えたところにあった。

 言葉は、自分が思いのままに紡ぐことのできる、もう一つの必ずしも身体性を通さない快楽であったのかもしれない。

 エロスなど吹きとばすような知が騒ぐような場所や人が、大好きである。

 そういう所があるだけで、ずいぶんと気が楽になる。

 なんとかして、わからないことをわかろうとしている人がいると思うだけでも救われる。

 少なくとも、何か自分にとって必要なことを、あきらめていないのだから。

 父親より若い世代である辺見さんの戦争とエロスの相関性についての言葉を聞いて納得できて、エロスに突き動かされているとしか思えない父親の行動を見て納得できないのは、理不尽かもしれない。と、はたと我に返ってみたりもするのも、妙に、空しいのであるが、言葉の快楽性を、重んじる?自分としては、当然のことであろう。

 それもまた、父親世代になってみないと、わからないことであるかもしれないが、エロスよりも何よりも、まず、家概念の崩壊が先にあるから、エロスにひた走ったのであろうと、今のところ思い至っている次第である。


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 戦争中に父親を亡くした、我が父親は、いつもやることがなく、表をうろついていたそうである。

 父親にとっては、家というよりも、兄弟がいて、母(自分の祖母)がいて、外があって。という
半分野良な生活だったのではないかと思う。

 自分の祖父は、直接的に戦争で亡くなった訳ではなかったそうだが、間接的には、そうでもあったともいえるので、やはり、戦争は、自分にとって、マイナスなイメージでしかない。

 そもそも、自分の育ててもらった家族は、戦争を体験してからというもの、何かお互いの存在に対する微妙な距離感に敏感になっていたように思う。

 外国で暮らして、日本に帰ってきてからも、そのずれは、ますますひどくなるばかりであったから、直接的ではないかもしれないが、間接的には、何がしかの影響を、受けていると思っている。他にも、探そうと思えば、いくらでも理由は見つかるのだろうが。

 時間や空間のずれは、人が思っているほど、ちいさくはないのかもしれない。とも、思うようになってきた。 

 一時期でも、我々の家族が、家族として存在したことには違いないであろうが、それも、またひと時でしかないのも、確かであるが。


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 さてさて、エロスもアイドルも家概念も戦争のあとさきで崩壊してきたところで、アッシャー家の崩壊でも読んで、気持ちを立て直すことにしたいが、グダグタ書き連ねているうちに、結局は、単発の音のようなつぶやくような言葉だけで生活している訳ではなく、ゆっくりだったりはやくだったりしながらリズムを刻むような日々、今現在の、子供になんでもないことでも怒ったり怒られたり、笑ったり、笑わせてくれる家での生活に、ずいぶんと癒されていることに、今更ながら、はたと気づいた。


 エロスとアイドルと戦争と家と、つながりそうもないものを、浮かんできたままに、つなげてみたりして、考えついたり、気づくこともあるので、人にとってはどうでもいいようなことではあるかもしれないし、何かを抉(えぐ)られるような、しんどい時もあるが、自己分析的日記は、まだ、自分には必要である。らしい。

 
 

 
 

 
 
by akikonoda | 2007-06-06 07:09
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