ヤンゴン──仏教僧が主導する反軍事政権デモが武力鎮圧されたミャンマーを訪問していたガンバリ国連事務総長特別顧問は2日、旧首都ヤンゴンで自宅軟禁中の民主化運動指導者アウン・サン・スー・チー氏と2度目の面会を行い、訪問日程を終了した。国連が発表した。
ガンバリ顧問は同日、新首都ネピドーで軍事政権の最高実力者タン・シュエ国家平和発展評議会議長と1時間余り会談した後、ヤンゴンに戻り、スー・チー氏と面会した。 ガンバリ顧問は今後ニューヨークに戻り、潘基文国連事務総長に訪問結果を報告する。 一部情報によると、軍政の武力鎮圧による死者数は何百人にも及んでいる。消息筋はCNNに対し、ヤンゴンの僧院から仏教僧の姿が消えたと語った。 先週末にはヤンゴン市内で1000人近くが拘束された。路上には治安部隊が展開し、国内情勢を海外に伝える手段となり得るカメラや携帯電話を持った人々に目を光らせているものの、治安部隊が市民を棒で殴打している映像が新たに明るみになった。 治安部隊は2日、デモ弾圧に抗議する2000人規模のハンガーストライキの現場であるヤンゴン市内の技術学校を包囲した。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 穿った見方ではあるが、仏教徒の抗議デモ、治安部隊、スーチーさん、という関係において、どこかで、誰かが煽っていると思われるのは自分だけだろうか。 紛争地帯を、アフリカ、中東、アジアにまで起こし、世界中に紛争をばらまいて、暴発させようとしているものを、どうしても、どこかで感じてしまうのである。 スーチーさんの連れ合いも気になるところである。 日本の給油問題、自衛隊派遣問題も、政府では、黙って見ているような節があり、その時期に起こった仏教徒の事件ではあったが、イスラム教、キリスト教、仏教まで、その紛争の種になるということの、深いところで何が起こっているか。 世界三大宗教がもとで起こった紛争である。 世界がどうにかしないといけないという風潮や動きが出てくるのは、当然であろうし、読める事ではある。 いつも、どこかで考えられる事として、武器商人、銀行屋、金融関係者の行き交う今、様々な問題の起こっているアメリカをはじめとする、地域的に不利益を被っていないもの達が住むところと考えた場合、どうしても西側諸国が見え隠れするのであるが、その自国の金銭問題やら諸問題から目をそらしたいが為に、その手の組織が、裏で仕組んだものと思われ、不気味なのである。 過去にいくらでもそういったことが、繰り返されているので、今回も、何かしらそういった匂いを嗅ぎ付けてしまうのである。 後に、徐々に分かってくる事も多々あると思うが。 犠牲になるのは、いつも、苦しみぬいて、動かされる人々である。 現地で犠牲になった方々、日本人ジャーナリストの方の冥福を祈るが、それにこじつけて、再軍備強化に利用しようとするものがいない事を願う。 そんなことになれば、犠牲となり、死んだ方が、浮かばれない。 〜スーチーさん関連〜 1960年に母親のキンチーがインド大使に着任。アウンサンスーチーはインドのデリーで学業を続ける。1962年-63年にはデリー大学レディ・スリラム・カレッジで政治学を学ぶ。1964-67年にはイギリスのオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジで哲学、政治学、経済学を学び、学士号を取得する。なお1990年には名誉フェローに選出された。ロンドン大学の東洋アフリカ研究所(SOAS)で研究助手を務めた後、1969-71年にはニューヨークの国際連合事務局行政財政委員会で書記官補となる。 1972年にチベット研究者のマイケル・アリスと結婚し、アレキサンダーとキムの2人の息子をもうける。ブータン外務省研究員、オックスフォード大学ボーダリアン図書館の研究員を務める。その後1985-86年には京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日し、父アウンサン将軍についての歴史研究を進める。当時の受け入れを行ったのは、当時同センター長の石井米雄(前神田外語大学長)らである。 1988年4月、ビルマに病気の母を看護するために戻る(ビルマを再びイギリスの植民地にする目的で、ビルマを分裂させる手先として帰国したと非難する者もいる。日本においても高山正之が産経新聞紙上や週刊新潮の「変見自在」で繰り返し指摘している)。1987年9月の高額紙幣廃止令などをきっかけに、学生を中心に始まった反政府運動(8888民主化運動)は、デモ中の学生が虐殺された3月以降に激化した。7月には1962年の軍事クーデター以来、独裁政治を敷いていたネ・ウィン将軍・ビルマ社会主義計画党議長が辞任した。戒厳令下では学生、市民らが大規模なデモを行った。アウンサンスーチーは8月26日にシュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向け演説を行った。9月18日には国軍がクーデターを起こし、ソウ・マウン議長を首班とする軍事政権(国家法秩序回復評議会、SLORC)が誕生した。民主化運動は徹底的に弾圧され、数千人の犠牲者が出た。アウンサンスーチーは9月に、翌1990年に予定された選挙への参加を目指し、国民民主連盟の結党に参加する。全国遊説を行うが、1989年7月に自宅軟禁された。国外退去を条件に自由を認めるともちかけられたが拒否したと言われる。 軍事政権は1990年5月27日に総選挙を行い、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟(NLD)が大勝した。しかし軍政側は権力の移譲を拒否した。激しい国際的な非難を招き、アウンサンスーチーは91年にノーベル平和賞を受賞した。賞金の130万ドルはビルマ国民の健康と教育のための基金の設立に使われた。 1995年7月10日に自宅軟禁から解放される。週末に自宅前集会を行って大勢の聴衆を集めたが、最終的に軍政により中止に追い込まれる。NLDは同11月に制憲国民会議のボイコットを決断し、軍政は、対抗措置として同党側委員を除名した。会議は事実上休眠状態となる(2003年に再開)。 NLDは1996年5月、アウンサンスーチー釈放以後初の党大会を計画したが、軍政側は国会議員235人を拘束する弾圧策に出た。軍政はアウンサンスーチーにヤンゴン外への移動を禁止していた。アウンサンスーチー側は1996年と1998年にこれに抵抗したが、いずれも妨害された。NLDは1998年9月、国会招集要求を無視した軍政に対抗し、アウンサンスーチーら議員10人で構成する国会代表者委員会(CRPP)を発足させる。 1999年3月、夫マイケル・アリスが前立腺がんで死亡。ビルマ入国を求めたアリスの再三の要請を軍政は拒否した。再入国拒否の可能性があるアウンサンスーチーは出国できず、夫妻は再会することができなかった。 アウンサンスーチーは2000年8月24日、ダラーのNLD青年部への訪問を再び阻止される。抗議の篭城を行うが、9月2日に首都ヤンゴンに強制送還された。同月22日にマンダレー行きを試みたが、再度拘束され、翌22日から再度自宅軟禁された。同10月から、ラザリ国連事務総長特使らが仲介し、アウンサンスーチーと軍政との間で国民和解対話に向けた前段交渉が始まった。2002年5月6日に自宅軟禁は解除される。その後NLDの党組織再建のため、各地を遊説し、訪問先で熱狂的な歓迎を受ける。2002年5月14日、アウンサンスーチーと久米宏が5分間の電話対談を行い、録音した音声が「ニュースステーション」で放送された。(なお、久米宏はミャンマーの軍事政権を嫌い国名をビルマと伝えていた。)2003年5月30日、ビルマ北部を遊説中に軍政による計画的な襲撃に遭い、活動家や支援者に多数の死傷者と逮捕者が出た。襲撃の責任者が現首相のソー・ウィン中将とされる。その後は軍施設に連行され、三度目の軟禁状態に置かれる。外部からの訪問はほぼ完全にシャットアウトされた。同9月に手術入院した後は自宅に移され、自宅軟禁状態となる。 2007年9月23日、仏教僧侶らの反政府デモが広がるのに伴い、軟禁先を自宅からインセイン刑務所に移されたとの情報がある。9月30日、ミャンマー訪れたイブラヒム・ガンバリ事務総長特別顧問と1時間にわたり会談した。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 アウンサンスーチー氏の経歴 2003年 BurmaInfo 1945年6月19日 ラングーンに生まれる。父はビルマ独立の英雄アウンサン将軍、母は後の駐インド、ネパール大使ドー・キンチー。 1947年7月19日 アウンサン将軍、閣僚6人と共に暗殺される(現在の「殉教者の日」)。 1948年1月4日 ヌ首相の元でビルマが英国から独立。 1960年 ドー・キンチー、インド大使に着任。スーチー、デリーで学業を続ける。 1960〜61年 デリー市のキリスト・メリー修道会学校で学ぶ。 1962〜63年 デリー大学レディ・スリラム・カレッジで政治学を学ぶ。 1962年3月2日 ネウィンによる軍事クーデター。 1964〜67年 オックスフォード大学セント・ヒュー・カレッジで哲学、政治学、経済学を学ぶ。学士号を取得。1990年に名誉フェローに選出される。 1968年 ロンドン大学東洋アフリカ研究所政治学部で研究助手。 1969〜71年 ニューヨークの国連事務局行政財政委員会で書記官補。 1972年1月1日 英国人研究者マイケル・アリス博士と結婚。後にアレキサンダー(73年、ロンドン生まれ)とキム(77年、オックスフォード生まれ)の2子を出産。 1972〜73年 ブータン外務省研究員 1975〜77年 オックスフォード大学ボーダリアン図書館で、ビルマ語文献とバラバイ(折り畳み本)の編纂研究員。 1985〜86年 京都大学東南アジア研究センターで客員研究員。 1987年 シムラのインド教育省の特別研究員 1988年4月 ドー・キンチー看病のためビルマに帰国(同氏は12月27日に死亡)。民主化運動の高揚に偶然立ち会う。 1988年8月26日 シュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向け演説。 1988年9月18日 国家法秩序回復評議会(SLORC)によるクーデター。 1988年9月27日 国民民主連盟(NLD)を結党、書記長に就任。以後1989年7月まで全国遊説し、百回以上の演説を行う。訪問先はラングーン、パゴー(ペグー)、マグウェー、ザガイン、マンダレー、モールメイン、タボイ、メルギ、パコック、タウンジー、チョークパダウン、モンユワ、ミンムー、ミッチーナなど。 1989年7月20日 自宅軟禁される。アムネスティ・インターナショナルはスーチーを良心の囚人と宣言。軍政からの圧力を受け、また軍政によるNLDへの禁止処分を防ぐため、同党はスーチーが党書記長ではなくなったと発表。 1990年5月27日 総選挙実施。NLDは485議席中392議席を獲得する大勝。軍政は選挙結果に基づく国会招集を拒否。 1990年10月12日 ノルウェーのトロルフ・ラフト財団から最初の国際的な賞(トロルフ・ラフト人権賞)を受賞。 1991年7月10日 1990年のサハロフ賞(欧州議会人権賞)を受賞 1991年10月14日 ノーベル平和賞を受賞。ノーベル委員会は翌年、スーチーが賞金130万ドルを使い、ビルマ国民のための保健・教育トラストを設立すると発表。 1992年 タンシュエ将軍がSLORC議長に就任。 1994年1月21日 軍政、戒厳令によりスーチーの拘留は最長6年になる可能性があると発表。外務、内務、国防の各大臣からなる3人委員会が決定すれば、さらに1年延長の可能性があると付け加える。 1994年2月14日 家族以外との面会が初めて許可される。ジェハン・ラヒーム国連駐在代表、ビル・リチャードソン米下院議員、ニューヨーク・タイムズのフィリップ・シェノン記者がスーチーを訪問。 1994年9月20日 軍政のタンシュエ議長とキンニュン中将が自宅監禁後初めてスーチーと会談。 1994年10月28日 迎賓館でキンニュン中将と第2回会談。 1995年7月10日 自宅監禁から釈放される。以後週末に自宅前集会を行っていたが、最終的に軍政により中止に追い込まれる。 1995年7月11日 記者団に対しビルマの民主主義回復に一層専念すると話す。民主化勢力、ビルマ民族以外の民族グループ、軍政の三者による対話実施を求める。また外国企業に対し民主主義が回復するまでビルマ投資を行わないよう求める。 1995年10月10日 NLD、スーチーを書記長に再指名(89年7月の自宅軟禁後、軍政の圧力から解任を発表していた)し、軍政による党指導部の人事変更禁止命令に対抗。 1995年11月28日 NLD、軍政主導の制憲国民会議の運営に抗議し、委員の引き揚げを宣言。軍政、対抗措置として同党側委員を除名。現在、国民会議は休眠状態。 1996年3月 軍政による移動禁止令に対抗し、ラングーン外への移動を試みる。マンダレー行き電車に乗り込むが、氏の乗った車両は駅に残される。 1996年5月 NLD、スーチー釈放以後初の党大会を計画。軍政、国会議員235人を拘束する弾圧策に出る。 1996年12月 学生による座り込みデモ。軍政、大学を閉鎖(〜2000年5月)し、キャンパスの遠隔地への分散に着手。 1997年7月23日 ビルマ、ASEAN加盟。 1997年11月15日 軍政、SLORCから国家平和発展評議会(SPDC)に名称変更。 1998年7月〜8月 ラングーン郊外のNLD支部訪問を試みるが、バセインに向かう路上で警察に停車を命じられる。抗議の車内篭城を2度に渡って行い、路上で数日を過ごしたが、強制的に自宅に送還される。 1998年9月16日 NLD、国会招集要求を無視した軍政に対抗し、当選議員10人で構成する国会代表者委員会(10人委員会、CRPP)を発足。 1999年3月27日 夫マイケル・アリスが前立腺がんで死亡。ビルマ入国を求めたアリス氏の再三の要請を軍政は拒否。再入国拒否の可能性があるスーチーは出国できず、夫妻の再会は実現しなかった。 2000年8月24日 ダラーのNLD青年部への訪問を再び阻止される。9日間に渡り抗議の篭城を行うが、9月2日に約200人の警官隊に取り囲まれラングーンに強制送還される。 2000年9月21日 ティンウー副議長と共にラングーン中央駅でマンダレー行きの列車に乗ろうとするが、支持者と共に逮捕される。 2000年9月22日 NLD幹部と共に自宅軟禁される。 2000年10月 スーチーと軍政との間で国民和解対話に向けた前段交渉が始まる。ラザリ国連事務総長特使らが仲介。 2002年3月7日 元独裁者ネウィンの親族、重反逆罪容疑で逮捕される。 2002年5月6日 自宅軟禁解除。 2002年12月5日 ネウィン死去 2002年12月25日 アラカン(ラカイン)州へ遊説 2003年5月30日 ビルマ北部遊説中に軍政による組織的襲撃を受ける。以後ラングーンへ移送されて軟禁状態となる。 著作: 『希望の声 アラン・クレメンツとの対話』大石幹夫訳、岩波書店、2000年 『アウンサンスーチー演説集』(伊野憲治編)みすず書房、1996年 『ビルマからの手紙』土佐桂子・永井浩訳、毎日新聞社、1996年 『自由』ヤンソン由美子訳、集英社、1992年 Aung San Suu Kyi, Letters from Burma, Penguin, USA, 1998. Aung San Suu Kyi and Alan Clements, The Voice of Hope, Seven Stories Press, USA, 1997. Aung San Suu Kyi and Michael Aris (ed.), Freedom from Fear and Other Writings (Revised Edition), Penguin, USA, 1995. 作成者注:ビルマ亡命政権(NCGUB)作成のアウンサンスーチー氏の経歴および、伊野憲治「アウンサンスーチー略歴」(『アウンサンスーチー演説集』みすず書房、1996年、18頁)に各種情報を加えて作成しました。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 国内からの圧力と国際社会からの監視によって、政府は総選挙の実施を余儀なくされました。スーチーの党(注:国民民主連盟、NLD)は、8割以上の支持を集めて勝利しました。しかし政権は選挙結果を無視し、彼女を軟禁しつづけました。自宅軟禁の下での歳月は気の遠くなるような遅さで流れたといいます。 「私は家の外に出ることが一切許されていませんでした。誰一人として面会は許可されませんでした。外界から完全に遮断されていたのです。」 スーチーとアリス氏 彼女は栄養失調で髪が抜けてしまったそうです。ひるがえって英国では、夫のマイケル・アリス氏が息子たちの面倒を見ていました。近所に住み家族と親しかったピーター・キャリー氏は次のように話しています。「ある意味では明らかに、彼は完全な孤独のうちに生活していました。いたたまれない気持ちでしたよ。アリス家にいた温かい心の持ち主は、もうそこにはいなかったのですから。」 母が軟禁されたとき、2人の息子はわずか12歳と16歳でした。 「子どもたちが私のことで悲しむことや、私を必要としてくれることのないようにと願っていました。彼らの存在は私の支えになってくれています。でも、子どもたちはその代償を今も払っているのだと思います。」 キャリー氏は、母親と遠く離れて暮らすことは子どもたちにとって大変なことだったという。「宿題のことでひどく悩んだときや、育ち盛りの少年が抱えるようなあらゆる問題を相談しようとしても、母親は遠くラングーンにいるのです。ほんとうに、これは酷なことですよ。」 次男が母親との面会を許されましたが、彼女が息子に会うのは2年以上ぶりのことでした。 このときスーチーは「彼が誰だかわからなかった」と言います。「通りですれ違ったら息子とは気づかないでしょうね。ほんの子どもと少年とでは、見かけが全然違いますからね。」 彼女の家族は「デイトライン」の取材に対し、彼女にとってこの別離は非常につらいものであり、話せるような性質のものではないと答えています。 しかしティンウィン氏は彼女には選択肢があったのだといいます。「彼女は子どものところに戻りたくなかったのです。」 ティンウィン氏はミャンマー連邦の駐米大使です。この「ミャンマー」とは軍事政権がビルマを指すときの呼称です。 ティンウィン氏によれば、政府はスーチーに格別のはからいをしているとのことです。「彼女に加えられた制約は現行法に基づいたものです。彼女は楽な生活をしていますよ。監獄に入ることや独房に拘禁されるのに比べたら、今の状態は非常に楽なものであり、寛大な処置でもあります。彼女にとっては快適ですらあるでしょう。」 1991年、自宅軟禁下のスーチーはノーベル平和賞を受賞しました。授賞式には息子のアレクザンダーが代理で出席しています。 ビルマ政府は出国を促しましたが、彼女はそれを拒否しました。刑の執行は6年に及び、その間彼女は自宅に軟禁され続けました。軟禁期間中で家族にはたった3度の面会しか許されませんでした。 「私はつねに祖国を最優先に考えた選択をしています。しかし国民は私的な生活と政治的信条との間で板ばさみになるべきではないと思います。」 演説に立つスーチー しかしそのすぐ後で、家族の悲劇はこうした彼女の選択をテストした。1995年、政権はついにスーチーの自宅軟禁を解除したのです。しかし彼女は首都ラングーンに留まりました。 支持者に会うためラングーンを離れようとしたとき、軍は彼女の乗った車を足止めしました。彼女は6日間を橋の上で過ごし、引き返せとの命令に応じませんでした。しかし最終的には彼女も諦めて、ラングーンに戻りました。ラングーンでの彼女は当局をものともせず、自宅の庭越しに演説を行いました。天候に関わらず支持者が集まってきました。 「演説に来た人の中には小さな袋を持ってくる人もいました。投獄されたときのために着替えが入っているのです。」 聴衆もつねに軍情報部の監視下に置かれました。神経戦が行われていました。彼女の存在自体が政権にとってはトゲのようなものでした。 しかし昨年、悲劇が起きました。夫のマイケル・アリス氏が前立腺ガンであることがわかったのです。キャリー氏は、長年にわたる離別が強いた残酷な結果だと言います。「彼は自分が担っていた荷の重さによって、とてもとても衰弱し、疲れきっていました。しかし彼は不屈の精神力でそれに耐えていたのです。」 マイケル・アリス氏は重体でした。彼はビルマ行きのビザを申請しました。家族によれば、アリス氏は妻の腕の中で息絶えることを望んでいたのです。しかしビザ申請は却下されました。軍政は代わりにスーチーに対して、空路で夫の元に向かうよう促したのです。 「政府はこの機会を捉えて私を国から追い出そうとしました。しかし誰の目にも明らかなことですが、もし彼らが私をいったん国から追い出したなら、二度と入国は許可されません。」 結婚する以前にマイケル・アリス氏に宛てた手紙の中で予期されていた、身を切り裂くようなジレンマとはまさにこのことでした。手紙にはこうあります。「たった一つだけお願いがあるのです。国民が私を必要としたときには、私が彼らのもとで務めを果たせるよう力を貸してください。私はときどき、2人が幸福の絶頂にあるまさにその時に、そうした状況がやってきて私たちを引き裂くのではないかという不安に駆られ、胸が苦しくなります。」 スーチーはこのときすでに自由とは代償を伴うものだということを理解していました。「私は国民と祖国に対する非常に強い義務感を持った母の手で育てられました。そのことにはつねに念頭にあったのです。」 そして彼女は夫に二度と再会することはありませんでした。マイケル・アリス氏は1999年3月27日にこの世を去りました 「私はこんなに素晴らしいと夫を持てたことに心から感謝しています。この幸せは誰にも奪うことはできません。」 彼女は民主主義のために胸の張り裂けるような選択をしたのです。 キャリー氏は「ビルマには自由が訪れるでしょう。そのときスーはビルマの大統領になるでしょう」と語ります。 しかしこうした数々の体験がありながらも、スーチーは不満が自らの心を捉えることを許さないのです。 「民主主義とは不完全なものです」と彼女は認める。「だからこそ民主主義のために働かなければならないのです。私の人生が思いのほか短いようなことがなければ、ビルマの民主化をこの目で見ることができると確信しています。」 こうした見方に反対する人物もいます。ウィンティン氏はスーチーがビルマで権力を手にすることは決してないと言います。彼は嘲笑してこのように述べました。「彼女は主婦にすぎません。一主婦なんですよ。それ以上の人物ではありません。」 一主婦、たしかにそうかもしれません。しかし彼女はノーベル平和賞を受賞し、世界の注目を集める主婦です。彼女の支持者が将来の国の指導者と認める一主婦なのです。 ユザナキン氏は言います。「私たちには希望があります。私たちには未来があります。彼女を指導者に迎えるという未来があるのです。彼女はいまも私たちのリーダーです。」 デイトラインNBC〜〜〜〜 なぜ、彼女が祖国にいるのかは、色々、理由はあるだろうが、根本には、民主主義国家あるいは、他の国家の後ろ盾があっての存在であるといえそうである。 かといって権力を欲しないスーチーさんが選んだのは、家族の住む英国での生活ではなく、祖国の為に軟禁されても、祖国にいる事であるという意味が少し分かった気がした。 もし、歯向かわない危なくない、普通の人を、「象徴」として都合がいい時だけ、政治的に使うと言うことであるならば、空しいことである。 スーチーさんの生い立ちもさることながら、国連の職員であった事も事実であり、普通と括るのは、何とも言えないものもあるが、 彼女達の複雑さが今まで続いているのには、民主主義と社会主義のぶつかり合いというものや、軍事的なもの、宗教的なものが、経済、環境が重なり合って、機能しづらいと言う事も伺い知れるが、一つ確実にいえる事は、「武力」ではその複雑さを解決できなかったということであろう。 また、アリス氏については、家庭では上述のようであったのかもしれないが、公の面において、別の側面があったと聞いたことがあるので、自分なりに調べてみたい。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 http://plaza.rakuten.co.jp/gomoasia/diary/200706130001/ by akikonoda | 2007-10-03 12:52
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