さびあるは、以前、おじさんに聞いてみた事がある。
おじさん。
今度、僕をおじさん達が時々集まっているという集会所に、連れて行ってもらえませんか。
さびあるよ。
それは、俺にはまだできない。
もっとも、君の我々における働きの成果が示された時には、実現するかもしれないが。
まだ、さびある派のさのじもあじわっていないのだからね。
お前には、まだまだ早いと言うものだよ。
さびある派には、
肉は金なり。
という言葉がありますからね。
あと、
くさっても屍肉。
くさっても資金。
もありますが。
それは、僕も、命を賭けて突き詰めて行こうと思っていますよ。
ところで、おじさん、時々、僕は思うのです。
さびある派の食の神様とは、本当は、どういったものなのか。と。
そうか。
俺は、毎日考えて、感じてもいるがね。
食べる前だけでなく、食事を作るときも、鳥の首を絞める時にも、毛を抜く時もね。
鳥達を庭に放して、雑穀をやるときでさえもね。
いつも、いつだって、食の神様を思っているよ。
お前は、だから、まだ、俺たちの集まりには連れて行けないのだよ。
少なくとも、食の神様を感じるようになってもらわないとね。
ぼくには、まだ生臭さしか感じられません。
俺には判るのさ。
お前には、死んで行くものが、いったい、どうなっていくのかを、考える事をしないってことがね。
死んだら、ただ、肉になり、あとは腐って行くだけでしょう。
さあね。
食の神様の教えの肝心のところが抜け落ちているのだよ。
お前には。
食べると言う事がどういうことか。
あるいは、食べる事によって、ひとつになっていくと言う事が、一体、どういうことなのか。
さらに、あと少しで死ぬとするなら、お前なら食べるという行為をどうしていくのか。
色々なことが、抜け落ちたものがあるのだよ。
お前にも、もちろん、俺にも。