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『宣教師さびある』3

 
 さびあるは、以前、おじさんに聞いてみた事がある。


 おじさん。
 今度、僕をおじさん達が時々集まっているという集会所に、連れて行ってもらえませんか。

 さびあるよ。
 それは、俺にはまだできない。
 もっとも、君の我々における働きの成果が示された時には、実現するかもしれないが。
 まだ、さびある派のさのじもあじわっていないのだからね。
 お前には、まだまだ早いと言うものだよ。

 さびある派には、
 肉は金なり。
 という言葉がありますからね。
 あと、
 くさっても屍肉。
 くさっても資金。
 もありますが。
 それは、僕も、命を賭けて突き詰めて行こうと思っていますよ。
 ところで、おじさん、時々、僕は思うのです。
 さびある派の食の神様とは、本当は、どういったものなのか。と。


 そうか。
 俺は、毎日考えて、感じてもいるがね。
 食べる前だけでなく、食事を作るときも、鳥の首を絞める時にも、毛を抜く時もね。
 鳥達を庭に放して、雑穀をやるときでさえもね。
 いつも、いつだって、食の神様を思っているよ。
 お前は、だから、まだ、俺たちの集まりには連れて行けないのだよ。
 少なくとも、食の神様を感じるようになってもらわないとね。


 ぼくには、まだ生臭さしか感じられません。


 俺には判るのさ。
 お前には、死んで行くものが、いったい、どうなっていくのかを、考える事をしないってことがね。

 
 死んだら、ただ、肉になり、あとは腐って行くだけでしょう。


 さあね。
 食の神様の教えの肝心のところが抜け落ちているのだよ。
 お前には。
 食べると言う事がどういうことか。
 あるいは、食べる事によって、ひとつになっていくと言う事が、一体、どういうことなのか。
 さらに、あと少しで死ぬとするなら、お前なら食べるという行為をどうしていくのか。
 色々なことが、抜け落ちたものがあるのだよ。
 お前にも、もちろん、俺にも。
 
 
 
 
by akikonoda | 2008-02-03 17:16
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