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チェ・ゲバラの生誕80周年から

 【メキシコ市・庭田学】キューバ革命の英雄チェ・ゲバラの生誕80周年にあたる14日、出生地のアルゼンチン中部ロサリオでゲバラの巨大な銅像の除幕式が行われた。

 戦闘服姿の立像で、高さ4メートル、重さ3トン。国内外の約1万5000人から寄付された鍵などを原料に作られた。式典にはゲバラの親族や旧友らが多数出席した。

 医師のゲバラはラテンアメリカを放浪し、メキシコでキューバのフィデル・カストロ氏(81)と出会い、59年のキューバ革命に参加。67年、ボリビアでゲリラ闘争中に捕まり処刑された。


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先日、カストロについてのドキュメンタリータッチの映像を見たのだが、視点が、内からと言うよりも外からのものが強く感じられ、ちょっと、長過ぎるのもあって、途中、集中力を欠きながらも、とりあえず見てみた。

その中で、かなり、外からの意向が強いと思ったのは、ゲバラを孤立無援にしたのは、カストロ自身でもあるということを、暗に示しているような、作りになっているところであった。

内部においても外部においても、変革期であるからして、様々な関係性において錯綜もしていたであろう事は予想されるが、実際、ゲバラを残忍に殺めたのは誰であるか等は、どちらかというと素通りしている感があったので、違和感を持ったのかもしれない。

手を下したものから見た視点が強いもの、とでもいおうか。



そういった点を考慮に入れながら、(革命や変革、改革との言葉の違いは、未だに理解していないので恐縮であるが)キューバ革命時と日本の安保闘争時の革命(改革?変革?)的動きの違いを、漠然と考えていた。


今まで、これといってカストロの家庭生活など知らなかったので、今回、その人生の一部を辿ったようなものを見て思った事は、彼を培い、彼が培った「家族」あるいは「家庭」というものが、かなりその社会を象徴するような資質を持っていた事も、少なからず、その革命の本質に関わっていたのではないか。と言うことであった。

彼は、比較的、裕福な家庭環境で育ったのだが、母親は父親の家の使用人として働いていて、カストロが生まれて、しばらくして正式な夫人として扱われるようになった事等、複雑な環境も、その底に流れていたと思われる。

そもそも、キューバ革命は、国家的、社会的な格差的問題が渦を巻くなかで、それに反対する若者が、政権によって虐殺された事がきっかけで、「革命」に火がついたとも言えるが、その中で社会を巻き込んでいくには、カストロ的生活基盤が、象徴のように含まれていたと。

つまり、裕福層と貧困層の格差を乗り越えようとする、暗黙の、生来備わったものが、彼の中に血となって流れていたと言う事も、少なからずあり、それに共鳴する社会がそこにあったのではないかと想像された。

自身の実家の、広大な砂糖きび畑も皆に振り分ける対象にした事で、行き届かないこともあったであろう政治の不満を和らげていったと言うエピソードも、共鳴に連なる一連の具体的な行為であり、理由であったかもしれないと。

あくまで、破壊ではなく、「再分配」をその目的として。

一方、安保闘争時の学生の方々との視点を考えてみると、いわゆる「内ゲバ」的虐殺があったという事もあり、深い傷跡を残しつつ、今まで腫れ物に触るように、面と向かって語るのが憚られていたのではないかと内心思っているが(実際は、当局のものが仕組んだものとささやかれる事もなきにしもあらずであり)、事の真相は闇の中のような気がしている。

そもそも、その時代を何も知らないに等しいものが言える立場ではないが、あえて言わせていただくと、少なくとも、最前線で関わっておられた方々が、徐々に社会に追いつめられていったと言うことの原因のひとつに「家庭生活」あるいは「家族社会」の欠如と言うものがあったかもしれないと言う事であった。

家庭生活と家族社会から、すこし離れたところに「学校社会」とも言える「場」があり、そこでは血縁関係で固まった家庭、家族という場よりも、個と個が繋がる場としての学校を共有している学生主体の集合が、社会全体とコミットする手前で、握りつぶされた感がするのは、キューバ革命のように「生活社会」と言う実感が付加されやすいものに裏打ちされた革命というよりも、「安全保障」という実感が湧きにくいものに重点をおいたもの、あるいは、戦後日本をひきずってはいるが、生活も戦争のどん底よりはまだましで上向きともいえなくもないという、実際の社会状況とのすれ違いのようなものが生じたということが、少なからずあったのではないかと。

実際、学生が中心となっていった運動でもあるので、「基盤」としての「学校」(あるいは放課後の学校、あるいはサークルの)という「場」が、うつろな器として、公共のものとして、繰り返し使われていくものであるように、通り過ぎていく季節のような成長過程の一つの終わりと重なっていたのではないかと思われるふしがあり、死ぬまで終わりの無いと言えなくもない家庭生活の「場」との違いは、少なからずあるのではないかと。


そういった生活の「破壊」にもつながりうる、欠如、危うさを孕みながら膨らんでいったのではないかと。


それは、右も左も知らない自分が、夢野久作やその父親である杉山について興味があったというのもあるが、福岡にありながら、よく知らずにいた玄洋社の背景を知る為に、玄洋社記念館に伺ってみて、少なからず、感じた事にも繋がるかと思われる。

玄洋社はいわゆる「浪人」の集まりであったと、玄洋社記念館におられた浅野さんはおっしゃっていた。

浪人と言っても、武家社会を色濃く映した浪人、学生になるまえの浪人といったものというよりも、あるものになるまえ、(今で言うところのモラトリアム的な存在と言えなくもないが)、安全な位置にいるのではなく、つねに時代の先を見据えて動かなくてはならないものとしての「立ち位置」を示す意味合いのものであると、政財界で暗躍したと言う杉山もまた語っていたと、お聞きした。

右も左もよく解らないまま、右と左にちゃんと関わり向き合った事も無いものが、その中で、ながれている(た)ものを捉えようとするのも、おこがましいとは思われるが、革命(改革?)の後の安定を求めていると言うよりも、革命(改革?)行為と思われるあらゆること、そのものが目的であったのではないかという事が、どこからともなく、頭をよぎったのであった。


そういった背景を解らないなりに手探りでさぐってはみたものの、未だに、理解したとは言いがたいのだが、一つだけ言える事は、当時、学生であった方々が「安全保障の問題」を問うた、その事自体の方がより重要であったのではないかと言う事である。


戦後、利権と私腹を肥やし続け、日本を食い物にするものに、大判振る舞いをする政治家や資産家が群れ、さらにその跡を継いで来ていることが多い日本(やあらゆる国に)おいて、その莫大な資産を手に入れて来たものたちの「安全保障」の確保であったならば、学生でなくとも、否を唱えるのは、当然であろうと。


今だからこそ、もっと、その時代に関わった方達の中で、わき起こったであろう事を深く知る事、今の日本の根っこに繋がってもいるあらゆることを見る事で、何かが変わっていくような気がしている。
by akikonoda | 2008-06-16 08:51 | 記憶
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