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ネグリ

アントニオ・ネグリ 未来派左翼(上・下 日本放送出版協会) メモ

<共>とは<公>のことではない。
<私>でも<公>でもないもののこと。
<現実の社会主義>は(既にジャコバン主義がそうであったのと同様に)<共>を<公>と混同してしまっていた、つまり、<共>というものを国家の財産に、あるいは国家のサービスに還元してしまっていた。
こうした還元の仕組みこそが、まさに、社会主義や福祉国家主義のすべての実践において展開されてきた。
しかし、<共>を計画し定義することは、こうした仕組みとは正反対にむしろ、<私>の概念も<公>の概念もともに超克すること、これら二つのカテゴリーを超えて<共>的な管理のただなかに向かうということ。


「囲い込み=締め出し」のための装置

土地を査定する際に基礎とされるのは、もはやその土地の主要な機能ではなく、ここに決められたあらゆる価値の埒外にある市場なのである。

「フラッド・タックス」[均一課税税制]の模範的な例としての大西洋のイル・ド・レ島。仏蘭西の最低所得(RMI)の25倍にも相当する額の税金を請求され、結果として、締め出される人が出てくる現代版囲い込み(enclosure)あるいは<排除=締め出し>(ex-closure)。
問題は、水や種子、エネルギー源、開発源だけだはなく、不動産収益という領域においても、別の道を闘い取るべき。


共有財としての<知>

資本というものは関係の概念であり闘争の概念である。
左翼の指導者たちは、命令する側に立つ事に決めたともいえる。
あるいは、資本家たちと同じように、<共>というものを収用の対象と考えてきた。
大都市の資本の植民地化。

<公>の性質を帯びた管理を、国家による古典的な管理を乗り越えるということ。
新たにダイナミックな財として、そしてまた行為者たちによって構成される財として捉え直すということ。

ユス・コムーネ[普通法、<共>の法]への変換。




戦争というものは警察的行動に帰されるもの、すなわち、人々を不安にさせる世界に秩序を与えるための行動となっている。

戦争を語るとしたら、それは平和との関係においてではなく、むしろ抵抗との関連において語られるべきである。

戦争は、かつてクラウゼヴィッツが定義したような「ほかの手段による政治の継続」ではもはやなく、むしろ、政治の基盤そのものとなっている。

すなわち、政治は暴力的で警察的な行為へと様変わりしたのであり、また、戦争はあくまでも<政治的なもの>の内部での活動となり、<政治的なもの>に基盤を与え、これを組織化へと導くものとなった。

このようなことが起こったのは、政治が<生権力>になったからである。

まさに、ex-closure[排除=締め出し]の権力になったからである。
by akikonoda | 2008-10-09 09:53
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