[マナグア 10日 ロイター] ニカラグアのダニエル・オルテガ大統領は、米国の金融危機について、世界の貧しい国に自国の経済原理を押し付けようとしたことによる神の罰だと述べた。
同大統領は、9日遅くに行われた演説で「悲惨な戦争に何十億ドルも費やした世界最強国の内側で、国民が自分の家にとどまるのに十分なお金を持てないというのは驚きだ」と語り、神が米国に罰を与えているとの考えを示した。 またオルテガ大統領は、現在の金融危機について、海外移住者からのニカラグアへの送金にも打撃を与えると指摘。同国中銀によると、海外居住者からの送金額は年間8億─10億ドル(約800億─1000億円)に上る。 〜ニカラグアメモ〜 http://ja.wikipedia.org/wiki/ニカラグア より 正式名称は、República de Nicaragua (スペイン語: レプーブリカ・デ・ニカラーグァ)。通称は、Nicaragua 。 公式の英語表記は、Republic of Nicaragua (リパブリック・オブ・ニカラギュア)。通称は、Nicaragua 。 日本語の表記は、ニカラグア共和国。通称、ニカラグア。ニカラグァ、ニカラグワと表記されることもある。 国名は現在のニカラグアの地に勢力を保っていた先住民の一つ、ニキラノ族の首長ニカラオがその由来となっているといわれている。 [編集]歴史 詳細はニカラグアの歴史を参照 [編集]前コロンビア期 ヨーロッパ人の到達以前のこの地にはチブチャ系の諸族が居住していた。現在のニカラグアは北方からトルテカ族、アステカ族がやってくる中間点で、相互の影響により豊かな文化が形成され、美しい陶器や石像を今に残している。また、それゆえにアステカ帝国最南端の交易所があり、中米地峡の北と南を繋いでいた。 [編集]スペイン植民地時代 フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ 1492年にクリストバル・コロンがイスパニョーラ島を「発見」してから、アメリカ大陸全域がヨーロッパ人の侵略に晒されたが、ニカラグアもその例外ではなかった。1502年、コロンに発見されたニカラグアでは、インディヘナが集団改宗する事件などもあった。 中央部のニカラオカリ(現在のリバス付近)を本拠とするインディヘナのニキラノ族の首長ニカラオが侵略に立ち向かった。それゆえ、この地域一帯を総称しニカラグア(ニカラオの地)と呼ぶようになった。 しかし、このようなインディヘナたちの抵抗にもかかわらず、スペイン人征服者のフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバ(コルドバは現行の通貨名となっている)に征服され、以後ニカラグアは、他の周辺地域と同様に、スペインによる過酷な支配下におかれることになった。 こうして植民地になったニカラグアでは、金鉱山やカカオ栽培等にインディヘナが奴隷として過酷な労役に使役され、ヨーロッパから天然痘などの疫病が伝播すると、虐殺や奴隷化の対象となったインディヘナ人口は絶滅に近いほど激減した。インディヘナがほぼ絶滅すると、代わりにアフリカ大陸から黒人奴隷が投入されるのも、ラテン・アメリカの他地域と同様であった。 その後、ヌエバ・エスパーニャ副王領の下のグアテマラ総督領の一部として管理下におかれ、農業や牧畜業が営まれたが、ニカラグアは中米ではホンジュラスやコスタリカと並んで開発が立ち遅れた地域だった。また、植民地時代を通じて次第にメスティーソが増えていった。 なお、植民地時代を通してカリブ海側はイギリス海賊の襲撃が相次ぎ、ミスキート王国はイギリス領ホンジュラス(現在のベリーズ)のようにイギリスの影響力が強まることになる。 [編集]植民地から独立国へ 大西洋岸に位置するコーン諸島は、元々モスキート海岸の残りと共にニカラグアに割譲されるまでイギリスの保護領だった。 19世紀前半にはインディアス植民地各地のクリオージョ達の間で独立の気運が高まった。1789年のフランス革命以来のヨーロッパの政治的混乱の中、ナポレオン戦争により1808年からスペイン本国で半島戦争が勃発した。フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトがボルボン朝のフェルナンド7世を退位させ、兄のジョゼフをスペイン王ホセ1世に据えると、インディアス植民地は偽王への忠誠を拒否した。1811年から独立闘争が本格化し、1821年9月15日にグアテマラ総督領が独立すると、ニカラグアもスペイン支配から解放された。 中米諸国は1821年9月16日に独立したアグスティン・デ・イトゥルビデ皇帝の第一次メキシコ帝国に併合されるが、1823年のメキシコ帝国の崩壊に伴い旧グアテマラ総督領の五州は中央アメリカ連合州として独立し、1824年には中央アメリカ連邦が成立した。エル・サルバドル出身のホセ・アルセが中米連邦初代大統領となるが、独立後すぐに政治的混乱を起こした。フランシスコ・モラサンをはじめとする自由主義者のエル・サルバドル派と、 ラファエル・カレーラをはじめとする保守主義者のグアテマラ派の内戦のなかで、モラサン率いる政府軍がグアテマラの戦いで敗れると、1838年に中米連邦は崩壊した。 中米連邦が崩壊して再独立した後は、他のラテンアメリカ諸国と同じように自由党と保守党の対立が先鋭化した。連邦崩壊後は自由主義派のレオンと保守主義派のグラナダの主導権争いが続き、両者が独自に大統領を擁立する中で中央政府はしばらく存在しなかったが、1853年にグラナダ出身の保守主義者フルート・チャモロが選挙によって大統領に就任すると、混乱はようやく収束したかに見えた。 しかし混乱は続き、1854年12月にアメリカ合衆国南部人で傭兵出身の冒険家ウィリアム・ウォーカーがニカラグア自由党の傭兵として上陸し、レオンの自由党とグラナダの保守党の内紛を利用して支配権を掌握した。ウォーカーは翌1856年6月、自らニカラグア大統領に就任した。アメリカ南部のテネシー州出身で環カリブ海帝国を建設しようとしていたウォーカーは、英語を公用語として強制し、既にニカラグアでは廃止されていた黒人奴隷制の復活を布告し、さらにはアメリカ合衆国人の土地取得を有利にする法律を制定した。 中米諸国はこの挙に対し一致団結して当たり、国民戦争が始まった。イギリスやバンダービルド財閥の支援を受けたコスタリカを主体とした中央アメリカ連合軍は、リバスの戦いでウォーカー軍を破り、1857年にウォーカーは打倒された。 また、先の国民戦争でウォーカーを招き入れてしまったことが仇になり、以後の自由党は暫く勢力を失い、その後しばらく保守党政権が続いた。 1893年、自由党のホセ・サントス・セラヤが政権を握り進出を始めたアメリカ資本の援助を受けて鉄道建設などを実行した。 1894年、セラヤはイギリス領だった大西洋側のミスキート王国をアメリカの支持の下に併合し、ニカラグアは太平洋と大西洋の両方に面した国家となった。またセラヤはニカラグアをグアテマラに代わって中米の指導的な国家にするために手を尽くし、エル・サルバドル、ホンジュラスと共に1896年には大中米共和国を樹立するが、1898年にはこの国家は崩壊してしまった。 セラヤはその後独裁者として長期政権を維持するが1909年、アメリカ政府を激怒させてしまい失脚することになった。 [編集]アメリカ合衆国の進出 (1909年 - 1933年) アウグスト・セサル・サンディーノ(中央) セラヤ失脚後は様々な政権が入れ替わり立ち替わりし、ブライアン・チャモロ協定が結ばれるとようやく建国当時からパナマ案と並んでの候補だった、中米地峡運河建設のニカラグア案が正式に放棄されることになった。 1927年、自由党のモンカーダらが保守党のディアス政権に対しての戦争を始めた。この戦争はすぐに停戦してしまったが、停戦後再びアメリカ海兵隊が上陸してくると自由党軍のアウグスト・セサル・サンディーノ将軍だけは停戦に応じず、ニカラグア民族主権防衛軍を率いて選挙監視を行うために駐留していたアメリカ海兵隊(占領軍)を攻撃した(サンディーノ戦争)。サンディーノ戦争はラテン・アメリカ諸国の支援を受けての、世界初の近代的なゲリラ戦争となった。アメリカ海兵隊は被害を恐れ、ニカラグア国家警備隊を養成し、海兵隊と共に国家警備隊がサンディーノ軍とジャングルの中でゲリラ戦を行うことになった。 しかし、お互い決め手にかけたまま時間だけが経ち、遂に選挙監視の任務が終わったこと、世界恐慌の影響でニカラグアに駐留する費用も惜しくなったことなどを原因に1933年、アメリカ海兵隊が撤退してサンディーノ戦争は終結した。しかし翌1934年、サンディーノはアメリカ合衆国子飼いの国家警備隊長アナスタシオ・ソモサ・ガルシアに暗殺され、1936年にソモサはクーデターを起こして自ら政権についた。こうして以降のニカラグアは1936年から1979年まで43年に及ぶソモサ王朝の支配が続くことになった。 [編集]ソモサ王朝 (1936年 - 1979年) 1937年に大統領に就任したアナスタシオ・ソモサ・ガルシア(タチョ)は、傀儡大統領を据えて政治と国家を私物化し、国会警備隊を利用した純然たる力の政治が行われた。 対外政策ではアメリカ合衆国に追従する一方で、隣国のコスタリカと二度、ホンジュラスと一度戦争を起こすなど、中米におけるニカラグアの影響力を拡大することに余念がなかった。 タチョが詩人に暗殺されると、長男のルイス・ソモサ・デバイレが後継者として実権を掌握した。ルイスは自由党(PLN)をコントロールし、形だけでもメキシコの制度的革命党(PRI)のような、PLNによる一党独裁体制の体裁をとっていたが、1963年に病死した。 後を継いだタチョの次男のアナスタシオ・ソモサ・デバイレ(タチート)は純然たる力の政治を目指し、国家警備隊による暴力を政権基盤として独裁を行った。 1972年にマナグア大地震により、首都マナグアが壊滅すると世界中からニカラグアへの義捐物資が送られたが、タチートはこれを全てソモサ一家とその関連企業の間で着服し、国民の不満は一層高まることになった。 [編集]ニカラグア革命とコントラ戦争 詳細はサンディニスタ革命、コントラ戦争をそれぞれ参照 1936年から続いていたソモサ家独裁に反対する中道・左派の幅広い結集を受けて1979年武装蜂起したサンディニスタ民族解放戦線 (FSLN) に対し、7月19日アナスタシオ・ソモサ・デバイレ大統領はアメリカに亡命した(第一次ニカラグア内戦)。こうして43年間におよぶソモサ王朝は終焉し、サンディニスタ革命=「歌う革命」が実現した。 サンディニスタ革命はニカラグア固有の条件を考慮した独自の革命であり、社会正義を実現するために遅れた部分を改革するというところから始まったものであった。このため、当初は非同盟政策、混合経済、複数政党制などの国造りを目標にして、キューバやソ連などの東側諸国から一線を画するつもりでいたが、次第にアメリカ合衆国やソ連やサンディニスタや国内保守派の思惑が入り乱れ、これが第二次ニカラグア内戦へと繋がるのである。 「人権外交」を掲げたジミー・カーター合衆国大統領とは違って革命を敵視したロナルド・レーガン合衆国大統領は“自由で民主的な政権を作る”という名目の下、「エル・サルバドル死守」を掲げて中米に介入を始めた。また、 オリバー・ノースがアメリカ政府とは独立した支援活動を繰り広げるなど、水面下でのさまざまな暗躍が噂された。 アメリカ合衆国は経済援助を停止し、CIAなどさまざまな組織を通じて、旧ソモサ軍の兵士や、エデン・パストラをはじめとするサンディニスタの反主流派、カリブ海のモスキート海岸の先住民、ミスキート族などを反政府勢力コントラに組織し、ニカラグアに第二次ニカラグア内戦を強いた。 1984年から1985年にかけて、革命政権「国家再建会議」から民政移管する形式がとられ、選挙によってサンディニスタ党首で再建会議議長のダニエル・オルテガが大統領となった。このオルテガ第一次政権は、ニカラグア国内の鉄道を撤収し、大規模な私有財産の接収を行った。また、反対者を秘密警察を通じて誘拐・拷問・幽閉などの徹底的な弾圧を行ったので、多くの知識人・富裕層がアメリカのマイアミやロサンゼルスに亡命した。この結果、ソモサ以前は中米一の繁栄を誇っていたニカラグア経済は完全に破壊されてしまう(第一次オルテガ政権が幕を閉じた時には、GDPはソモサ末期の1979年の30%以下にまで低下していた)。 1986年6月、国際司法裁判所は、アメリカ合衆国の主張を全面的に[要出典]退け「機雷封鎖、コントラ支援を含むニカラグアへの攻撃は、国連憲章をふくむ国際法に違反」とする判決を下すが、アメリカはコントラ支援をますますエスカレートさせる。11月、アメリカ合衆国のイランへの武器売却代金がニカラグアのコントラ・グループに流れていた事が発覚(イラン・コントラ事件)。この際にアメリカ合衆国の手先となって支援資金の洗浄をしていたのはサレム・ビンラディン(オサマ・ビンラディンの兄)であった。[要出典] [編集]終戦、和平合意、その後のニカラグア 2007年に再選したダニエル・オルテガ大統領 1987年の中米和平合意に沿って、1988年3月、政府と反政府勢力問の暫定停戦合意が成立した。1990年2月、国連による国際監視のもとで大統領選挙を実施した。オルテガをはじめとするサンディニスタ幹部はこの選挙での勝利を予想していたが、サンディニスタは僅差で敗れ、国民野党連合 (UNO) のビオレータ・チャモロ候補が初の女性大統領に選出された。4月にチャモロ政権が発足。6月にはコントラが武装解除・解体完了を宣言する一方、国軍(それまで革命前の反政府武装勢力時代からの名称「サンディニスタ人民軍」を用いていたが、改称した)が8万人から1万5千人に削減され、内戦は実質的に終結した。サンディニスタ内ではクーデターを起こして政権を確保しようとする動きもあったが、オルテガ大統領はこれを制し、無事民主的な政権交代が実施された。その一方でダニエル・オルテガの弟が国軍の最高司令官に就任するなど、サンディニスタと野党のお互いの妥協が認められた形となった。 1996年10月20日に、大統領等選挙が行われ、自由同盟(AL、中道右派連合)から元ソモサの部下だったアルノルド・アレマン候補が当選した。1997年1月10日、アレマン新政権発足する。同時にダニエル・オルテガの養女へのセクハラなど、FSLN幹部の汚職がスキャンダル化し、サンディニスタ革新運動が分裂した。 2001年11月4日に行われた総選挙で、エンリケ・ボラーニョス前副大統領が選出、2002年1月10日にボラーニョス政権発足。前アレマン大統領の在任時の汚職疑惑が社会問題化する。2006年11月5日に行われた大統領選挙で、カトリック教会を味方につけ貧困撲滅を訴えた、FSLNのダニエル・オルテガ元大統領が16年ぶりに当選した[1]。2007年1月10日にオルテガは大統領に就任した。 by akikonoda | 2008-10-11 13:28
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