コントラ メモ

コントラ
1980年、エル・サルバドルではサンディニスタ革命の影響を受けてファラブンド・マルティ民族解放戦線と政府軍の内戦が始まろうとしていたが、レーガンは「エル・サルバドル死守」を掲げてサンディニスタ政権を打倒し、アメリカにとっての都合の良い親米的な政権を再び樹立するために、CIAを使ってソモサ政権の残存勢力、サンディニスタ政権に不満を持つ勢力に対して資金と武器を供給して、反革命傭兵軍コントラを結成した。
エデン・パストラ率いるFSLNの一部は組織内部の対立によりコントラに合流し、コントラはサンディニスタ政権の打倒を目ざして革命政権に対して武力紛争を仕掛けた。コントラは主にニカラグアの隣国のホンジュラスを中心にして組織され、そこにコスタリカからのエデン・パストラの部隊(民主革命軍ARDE)と、ニカラグア大西洋側のモスキート海岸の先住民ミスキート族(MISURASATA)が加わって、三派に分かれて出撃した。こうしてアメリカは1989年の内戦終結まで主にホンジュラスのコントラを支援し、操作した。こうした勢力の訓練には国内で汚い戦争の経験を積んでいたアルゼンチン陸軍や、さらにはイスラエル国防軍も携わっていたとされている。
FSLN内での路線対立や、新聞社ラ・プレンサ紙のビオレータ・チャモロが政権から降り、最初に国家指導をした五人の内ブルジョワの三人は消えて、残った二人は本来は軍事部門であったはずのFSLNだけになった。また、内戦が進むにつれて言論弾圧や、祖国防衛のための徴兵制なども敷かれ、次第にニカラグア国民の間にFSLNに裏切られたという思いが蔓延してきた。
その一方でアメリカは海空軍を使ってニカラグアに対して直接的な武力攻撃も繰り返した。米軍は1983年9月 - 1984年4月の間にプエルト・サンディーノ、コリント、サン・フアン・デル・スル、サン・フアン・デル・ノルテ、ポトシにあったニカラグアの主要港や海軍基地を空襲した。
1983年7月、メキシコ、パナマ、コロンビア、ベネズエラの大統領はパナマのコンタドーラで大統領会議を開催し、ニカラグア内戦、グァテマラ内戦、エルサルバドル内戦の終結を協議した。このコンタドーラ・グループは協議の結論として、超大国の直接的・間接的な介入・干渉を排除し、ラテンアメリカの問題は基本・原則としてはラテンアメリカ自身の努力で解決し、超大国・大国・域外国からの支援は補助的・限定的にすること、戦闘の終結、民兵勢力の武装解除、自国領土内への外国軍隊の受け入れ禁止、政府と民兵集団の対話と和解を提案したが、ニカラグア内戦、グアテマラ内戦、エルサルバドル内戦の終結には至らなかった。
1984年11月に国連監視下で行った大統領選挙でオルテガは大統領に当選した。野党はこの選挙をボイコットし、実質的に国民の半数の支持を得ることは出来なかったとはいえ(オルテガの得票率41%)、この選挙によりサンディニスタの民主的な正当性が確保されたことになる。しかし、この後も米国は民主主義国を共産主義と呼び、コントラを援助して内戦を続けさせたのである。
1985年にコントラの一部だった大西洋側の先住民ミスキート族の部隊ミスラサタとの停戦がなされた。これは前年にサンディニスタがミスキート族が自治を行う権利を憲法で認めたからである。
1985年4月、メキシコ、パナマ、コロンビア、ベネズエラ、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、ペルーの大統領はコロンビアのカルタヘナで大統領会議を開催し、中米諸国の内戦の終結を提案したが、それでもニカラグア内戦の終結には至らなかった。当時は冷戦末期だったが、冷戦の終結前であり、米国とソ連は冷戦時代最終局面の勢力争いを繰り返し、米国はコントラを支援し、ソ連はサンディニスタを支援した。アンゴラなどの他の多くの開発途上国の内戦と同様に、ニカラグア内戦もニカラグア国民だけの戦争ではなく、大国によって中小規模の国家が大国の勢力争いの場となるという、米ソの代理戦争という側面も含んでいた。
1986年2月、国際司法裁判所はアメリカがコントラに武器・資金を支援して、サンディニスタ政権に対する武力攻撃を行わせていること及び、アメリカ軍がニカラグアを空襲したことに対して、他国の国家主権に対する侵害、他国の内政に対する強制的な干渉、他国に対する侵略的武力行使は国際連合憲章違反であると認定し、前記の侵略・介入・干渉行為の即時停止と120億ドルの賠償金の支払いを命じたが、米国政府は判決の受け入れを拒否した。 1986年11月、国連総会は米国に対して国際司法裁判所の判決を受け入れるように求める拘束力が無い決議を賛成94 - 反対3 - 棄権47で採択した。決議に反対投票したのはアメリカ、イスラエル、エル・サルバドル(極右政権による支配)の3ヶ国だけである。
[編集]崩壊
1979年から継続する内戦で多くの国民が死傷し、自然環境、社会資本、生活基盤は破壊され、内戦とアメリカの経済制裁により経済は破綻し、ハイパーインフレが発生し、国家も社会も国民もサンディニスタ民族解放戦線もコントラも、ニカラグアの誰もが著しく疲弊し、肉体的・精神的・経済的・社会的に耐えうる限度を超え、国家は崩壊の危機に直面していた。 その一方で苦しむ国民を片目に白いベンツを乗り回すなどサンディニスタ幹部の腐敗も顕在化した。
1987年8月、ニカラグアの誰もが疲弊し、国家が崩壊の危機に直面していた状況下で、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、グァテマラ、エルサルバドルの大統領はグァテマラのエスキプラスで大統領会議を開催し、ニカラグア内戦の和平・停戦を協議した。コスタリカのサンチェス大統領が提案した和平調停により、サンディニスタ民族解放戦線政権とコントラの戦闘の終結、国民の和解と融和、コントラの武装解除とコントラへの支援の打ち切り、政府軍の軍縮、民主的な選挙の実施と議会・大統領の選出を受け入れるエスキプラス合意が成立した。
米ソの冷戦が終結し、ソ連からサンディニスタ民族解放戦線への支援も、アメリカからコントラへの支援も打ち切られ、サンディニスタ民族解放戦線の政権とコントラは1989年8月に戦闘を停止し内戦は終結した。


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http://ja.wikipedia.org/wiki/コントラ より


コントラ(contra:スペイン語で「―に対する」という意味の接頭辞、英語の counter に相当)は、中米ニカラグアの親米反政府ミリシアの通称である。
[編集]概要

この言葉が有名になったのは、1979年のサンディニスタ革命政権の成立を危惧し、当時のアメリカ合衆国のレーガン共和党政権の資金提供によって活動した反政府民兵(事実上の傭兵)による。
革命によって成立したサンディニスタ民族解放戦線 (FSLN) 政権に対し、反革命(スペイン語で"contra-revolucion")の側に立ったため、「コントラ」と呼ばれるようになった。
コントラとは三派に分かれて活動した反ニカラグア民兵を当時のニカラグア政府が総称したものであり、最初に生まれて最も規模が大きく戦争の主体となったのは、非公式にホンジュラスを基地にして西部から越境攻撃を仕掛けてきた、旧ソモサ軍を主体とした純然たる傭兵部隊のニカラグア民主軍 (FDN) であり、数百人の兵力から始まったのが米国の援助などを受けて最大時には15,000人の兵力に達し、パナマ国軍やアルゼンチン陸軍、イスラエル国防軍などに訓練され、ホンジュラス軍や駐ホンジュラスアメリカ陸軍、アメリカ空軍の支援を受けていた。
二番目に生まれた組織は、ソモサ王朝時代にマナグアの国会宮殿占領事件を指導した、「ゼロ司令官(コマンダンテ・セロ)」こと、元FSLN司令官エデン・パストラが率い、非公式にコスタリカを基地にして南部から攻撃を仕掛けた民主革命同盟 (ARDE) で、兵力は2000人 - 3000人だった。
三番目に生まれた組織は、FSLNのスペイン語教育などの同化政策や、強制移住政策に反抗して立ち上がった、カリブ海岸の先住民ミスキート、スモ、ラマを主体としたMISURASATAだったが、これはサンディニスタ政権が1984年にミスキート族に自治権を認めると1985年5月に和解が成立し、停戦した。
米国当局によるコントラ組織統一の試みを受け、1985年6月ニカラグア野党連合 (UNO) がアルフォンソ・カレロ、アルトゥーロ・クルス、アルフォンソ・ロベロらの主導で結成された。UNOが1987年始めに解散されると、5月にニカラグア抵抗 (RN) が結成された。
こうして低強度紛争を行う彼らをレーガン大統領は「自由の戦士」と呼び、ニカラグアへの攻撃を賛美した。ニカラグアのダニエル・オルテガ大統領はこうした態度を鑑みて、率直に「レーガンはテロリストだ」とことあるごとに語った。
イラン・コントラ事件によって、レーガン政権による援助が難しくなった時期に、「統一教会」(統一協会)の教祖、文鮮明が、レーガン政権の要請を受けて創設した新聞『ワシントン・タイムズ』でコントラに対し、1400万ドル(当時のレートで約35億円)を援助することを申し出た。
1988年3月23日コスタリカの仲介でサポア停戦合意が結ばれ、翌年の追加合意でコントラの武装解除と再統合が計られた。この合意により国際監視下での選挙が1990年2月25日行われ、国民野党連合のビオレタ・チャモロがダニエル・オルテガを破り大統領に当選した。いくらかのコントラ分子及びサンディニスタの一部は、1990年代の短期間武装反乱を起こしたが、いずれも武装解除するように説得された。


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イラン・コントラ事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イラン・コントラ事件(Iran-Contra Affair, あるいは「イランゲート事件」"Iran Gate")は、アメリカ合衆国のレーガン政権が、イランへの武器売却代金をニカラグアの反共ゲリラ「コントラ」の援助に流用していた事件。1986年に発覚し、冷戦西側はおろか世界を巻き込む政治的大スキャンダルに発展した事件である。
目次 [非表示]
1 概略
2 イスラエルの活動
3 関連項目
4 外部リンク
[編集]概略

アメリカ軍の兵士ら米国人がレバノン(内戦中)での活動中、イスラム教シーア派系過激派であるヒズボラに拘束され、人質となってしまった。彼らを救出する為、米国政府はヒズボラの後ろ盾であるイランと接触し、イラン・イラク戦争でイラクと戦うイランに対し、武器を輸出する事を約束した(イラン革命時の米国大使館占領事件により、米国はイランを敵視して、イランに対する武器輸出を公式に禁じていた)。武器の輸出は、ヒズボラおよび西欧諸国での爆弾テロを支援したグループに対する影響力を持つイランの歓心を買った。
さらに米国政府関係者は、イランに武器を売却した収益を、左傾化が進むニカラグアで反サンディニスタ活動を行う反共ゲリラ「コントラ」に与えていた。ニカラグアはキューバおよびソ連に支援された共産政府が統治しており、冷戦を戦い抜こうとする米国にとっては看過出来ないことであった。
それぞれの行為は、当時民主党が多数を占めた議会の議決に反した。議会はイランへの武器販売およびコントラへの資金提供に反対していた。なお、このスキャンダルによって、レーガン政権によるコントラへの支援が難しくなった時期に、統一教会の教祖文鮮明が、レーガン政権の要請を受けて創設していた保守新聞『ワシントン・タイムズ』で、コントラに対し、1400万ドル(当時のレートで約35億円)を援助することを申し出た。
また、この時、アメリカのイラン・コントラ双方の交渉窓口は当時CIA長官だった後のジョージ・ブッシュ元大統領であったとされ,このブッシュ元大統領の関与が民主党政権下の連邦議会で公聴会という形で取りざたされ、行われた。元大統領が公聴会に招へいされるという異例の事態に及んだがその真相はいまもってうやむやである。
[編集]イスラエルの活動

イスラエルは米国の支援以前からイランを支援し、武器を密輸出していた。革命直後にイラクに攻撃されたイランは、国際的には敗北必至と判断され、実際に戦死者はイラクをはるかに上回っていた。革命イランは「反イスラエル・反ユダヤ」が国是であったが、戦争敗北の恐れから、イスラエルからの武器援助を承諾した。イスラエルにとっても、反ユダヤを掲げるイラクが勝利することは悪夢であった。戦争時、イランの武器輸入総額は、半分がイスラエルからのものであった。イスラエルが販売する武器は、米国や西欧の軍が使用する数多の兵器であった。
米国政府はこれに目をつけ、人質解放のために、身代金として、米国の武器をイランへ輸出するように要請した。これは、イランとの武器貿易を公式にしたいイスラエルにとって望むところであり、米国はイスラエルによるイランへの武器輸出を承認し、密貿易は公式な貿易となった。これによって人質の一部が解放されたが、その頃からイスラエルは米国の代理人としてイランへ武器を輸出することを渋るようになった。そのため、米国政府は直接、イランに対して武器を密輸出するようになったが、これが発覚してスキャンダルになってしまった。
一方、ニカラグアの「コントラ」に対しても、元々イスラエルが単独で支援していた(当時のイスラエルは、左傾化が進む中南米で、右派ゲリラを積極的に支援していた)。米国も1970年代前半はゲリラを公式に支援していたが、民主党左派であるジミー・カーター大統領によって非合法化され、米国はイスラエルを介して援助するようになり、当時のイスラエルは数重にわたって米国の代理人となって、武器を輸出していた。
レーガン政権はイスラエルの外交を利用してイランとニカラグア双方と接触したものの、暴露されてしまった。イスラエルは暴露の前に、米国との関係を清算しようとしており、スキャンダルによって攻撃されることは免れた。
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by akikonoda | 2008-10-11 13:44
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