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共痛感覚のようなもの


先日の辺見庸さんのETV特集を録画してもらって、拝見した。

以前、拝見したときと同じようにモノローグ的な語りであったが、インタビュアーの方や、その背後に蠢くあらゆるものに対して語られているようで、勝ち組負け組等と勝手に判断されるものの立場、どちらかというと、今の世の中では、敗者としてせせら笑われるような立場にいるものに対しての、極めて個人的でしかないという痛みのそこに流れる「共痛」感覚のような、うっすらとした憎悪と皮ひとつ隔てたような痛みを引き摺った愛情のようなものを感じていた。


辺見さんは、夢野久作の猟奇歌の血なまぐささが上塗りされていくような加速感を漂わせる、

白塗りのトラックが街をひた走る
どこまでもどこまでもまっかになるまで

という歌から、夢野の生きた恐慌時代とその後の戦争への足音を感じ、

トラックで秋葉原につっこんでいった派遣社員であった「k」という人がもしかして自分であったかもしれないと言うような立ち位置で、無差別殺傷事件を起こしてしまったことと同時侵攻的に起こった現在の金融危機との符合点、あるいは類似性、同周期、同秋波のようなものの先をも感じておられたようだった。

自分も、夢野久作を去年辺りから掘り起こし、考え続けていたので、その偶然に驚きつつ、何度もその歌を思い起こしていた。

久作のご子息が福岡県立図書館に寄贈した直筆の原稿を拝見したりして、久作の人となりを辿っていくうちに、久作の父上が政財界で暗躍し、金融(確かモルガン)系の人と顔つき会わせていたということもあり、戦争に対するその当時の政財界を支配していたであろう思惑のようなものに直に触れていたような思考が随所に見られ、時と場所を越えた、生の声のような臨場感を持って、興味深く堪能していた次第である。

夢野の「戦場」についての小説の一節で、その生々しさを醸し出していたのは、当時の日本兵は欧米の兵士よりも頭を撃たれる確率が高かったという件。
用心深く這いつくばるのではなく、勇気というよりも無謀に近いあるいはその場の勢いのようなものに突き動かされるように突進してくるので、頭を狙われやすかったという話であったが、武器をつくるにも、日本は国営化されて、すべて国民がお国の為という事でかりたてられ、ただ働きさせられていたのが、他の欧米諸国の軍人にとってうらやましい限りであったと。
金融資本に牛耳られた武器市場に振り回されて大変であったという軍人の内情はさておき、いずれにしろ一般市民にとっては死ぬか痛いだけであったという時代の皮肉のような文章であった。

また、千坂恭二さんがおっしゃるように、日本は欧米というよりも、軍事国家的側面を重視した西洋の中の他者のような存在でもあった「独逸」を念頭においた西洋化の道を歩みつつあったということにも、触れていた。

当時の欧米の人によって書かれた犬と中国の人が公園に入るのを禁止すると言う看板があり、それに憤慨し、それを書き換えたいという欲望があったというような文章にも出くわした。

それは当時のアジアの人の思いを負った、大陸に進出した当初にはすくなくともあったであろうアジア主義のひとつの側面、夢野なりのひとつの証言なのではなかろうか。

千坂さんのように「世界革命戦争」であったかもしれない、当時の戦争に対する帝国主義的側面もひっくるめてあえて言い訳はせず批判を受けるべきであるというような立場も当然あるであろうが、複雑な世界戦争のそこで暗躍し、今も蠢めき続けている金融関係の動き、武器の流れ、資源の流れ等のそこに流れている手触り(小説で表現されうる可能性のある領域として)のようなものを、しっかりみさだめ、このままあらぬところに流されてしまいかねないと言う危機感と対峙し、対処したいと思いつつ、未だに漂っているような状態ではある。


辺見さんや夢野のような、いつも何かどこかにひっかかって残っていくものや思いを引き摺ったように、何かを思うという事は、思わないことよりも、憎悪と紙一重かもしれない愛情を感じる何かがあり、それを生きている限り続けていかれる/たのだろうと思うと、荒んだ嵐の海になげだされたような時であっても、一本の丸太を見つけたような心持ちがし、自分の中の壊れていたなにかが、どこかで張り手を喰らわせられて正気に戻るような意味において、何かが救われた気がしたのである。

ご自身が苦痛を伴う扱いを受けようが、自分がして来た事に対する反応だからとそのまま受け止めてしまうような側面を伺わせながらも、他者が訳も分からずせせら笑われているのを見ると見ていられないような、誰かはわからないがいたずらにしろ本気にしろ電話で殺すぞと言われながらも、思った言葉を発するような人の言葉と行為はどうしても重みを持って引き摺りながらでも死ぬまで持っていたい何かがあるのである。

カミュがペストの中で述べているように、絶望に慣れてしまう事が絶望そのものより怖いとは思うが、自分もひっくるめて、共痛感覚のようなものが麻痺し、思ったところで何がかわるかとせせら笑い、見て見ぬ振りをすることになれてしまうのは、やはり、怖いと思わずにはおれない。
by akikonoda | 2009-02-03 09:10
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