道玄坂にて 渋谷のハチ公前に立っていた。 別に誰かを待っていた訳でも、銅像と化したハチ公のスナップ写真を是が非でも撮りたかった訳でもなく、三軒茶屋に行く為に渋谷で乗り換えようとしていただけなのであるが、ハチ公前に立つと、急に行けるところまで歩いてみたくなった。 飼い主等いないし、いらないというような野良犬の行く宛等ない反・ハチ公的な野心というよりも、どちらかというと帰るところをよく知らない野良猫のようなたどたどしさでもって、歩いてみたくなったのである。 そもそも、東京に来て、モノレールや電車を乗り継ぐだけで、あまり自分の足で道の上を歩いていないような気がしていたので、まだ時間もあることだし、三軒茶屋の方向を確認してから歩こうと、駅にある簡単な地図の方に近づいた。 地図を見ると、「道玄坂」の先の方に三軒茶屋があるらしかったので、帰る場所はここには見あたらないかもしれないが、行く先はとりあえず分かっていたので、「道玄坂」を通ることにした。 実のところ、「道玄坂」が渋谷近くにあるということすら、よく知らなかったのであるが、もしかして、時間があったら行けるかもしれないと、なんとなく夢想していたのであった。 夢野久作が、関東大震災の後に東京を訪れた時にも、「道玄坂」界隈をうろついたと言うことを知っていたこともあった。 彼もまた今の自分のように、福岡から出て来て東京をうろつき、どこか田舎の匂いの抜けない野良犬か野良猫の心持ちがしたのではないだろうか等と思いつつ、久作の物語に出てくる女詐欺師とうだつの上がらない新聞記者が、こたつに入り面と向かってなんとはなしに二人きりの密談を交わすような心持ちで、「道玄坂」を荷物についたころころを転がしながら、歩いていった。 確か、その物語の中で、女は男に殺されたのだった。 犬か猫の屍骸を紐にくくりつけるように、女の亡骸を使われていない井戸に吊したところで、物語は終わっていたのではなかったか。 と思ったところで、何かの歯車が突如噛み合うような、犬が何かに噛み付いて、何かから得体の知れないような生温い血が吹き出すような、あるいは、いつか見た悪夢のように、何かの生け贄の儀式で首を掻き切られた、無表情な花首のような、下半身をどこかに忘れて来てしまい電灯の下の紐に吊るされた頭がじわじわとこちらに向き直るような、一種、青ざめた記憶が立ち上がってきたのであった。 ころころと言うよりもガザガザと音を立てながら転がしていた小さな荷物に、まださほどではない坂の始まりの負荷が掛かりそうになった時、道の向こうに「109」が見えた。 たぶん、「あの女(ひと)」も幾度となく、ここを見上げたのであろう。 と昼間の「109」を言葉の侭に見上げながら、頭の角に押しやられたか、頭の後ろで、ガサガサと言うころころの残響をともなうような、昼間なのに夜道を歩いているようなカツカツと言うハイヒールの音がほんの少しずれながらもおずおずと遅れて後をついてきたような気がしたのであった。 信号が、「それ」が追いついてくるのを待っていたように、赤から青に変わったので、そのまま向こう側に渡ることにした。 たくさんの女の子達が出入りしていた。 鈍い催眠をかけられるように中に入って行くと、思ったほど広くない店舗内に所狭しと女の子達が、エスカレーターを中心にぐるりと店舗が並んでいるその間を、原色を身に纏った瞬きしない大きな目を持つ熱帯魚か金魚か錦鯉のように、緩やかに獲物あるいはえさを探し速やかに駆け寄る動作を繰り返しながら、優雅に回遊しているかのようであった。 たぶん、「あの女(ひと)」も幾度となく、ここに入り、身支度をして夜の街に繰り出していったのであろう。 東京に来る前に、普段あまりつけない口紅をどうしても手に入れなくてはならないような気がしたのは、記憶のどこかに残っていた「道玄坂」にあるという地蔵のせいだったかもしれないと、漠然と記憶の糸をたぐり寄せながら考えていた。 生暖かい水に潜り疲れて、首だけ上を出しながら、辛うじて空気を吸っているような、肺呼吸の心もとない「空洞」あるいは「浮き」が、内面に広がっていくような、窮屈さを覚えていた。 そうして、美しく化粧じた弾けるような若さを滲ませた女の子とはどこかずれている、白塗りの、こすれた古畳の匂いのする空き部屋で息絶えた青い服を着た痩せた「あの女(ひと)」が、何かを待っているような気がしたのであった。 「あの女」が「道玄坂」の地蔵の近くの空き室で亡くなってからというもの、頻繁にその女に何か思うところのある者達が、「道玄坂」にあるその地蔵を訪れるようになったと聴いてはいたのだが、渋谷にあるというところは、ざっくりと抜け落ちていて、今、ようやく首をもたげて記憶の糸先に浮かんで来たかのようであった。 「道玄坂」の地蔵を訪れた女達は、その無表情な目をつむったままの地蔵に死化粧を施すように口紅を塗り、生きているようにも死んでいるようにも見える花首の束を置いていくのだと言う。 又聞きの記憶というものは、特にそうかもしれないが、いつのまにか、自分が其処にあたかもいたような、疑似記憶を植え付けられ、「あの女」の思いや行為さえ、そっくり移植されているかのような、自分か他の誰かの見た奇妙な夢の続きをなぞっているような気さえしてきたのであった。 「あの女」は、とある電力会社に勤めていたエリートと言われていた父親に習ってその後を追うように同じ職場で働くようになったと言う。 その父親の存在をなくして一家の大黒柱として働くようになったのはいいが、その仕事の途中で、同僚に水をあけられて悩んでいた時と並行するように、身体を売るようになっていったのだと。 あたかも、「道玄坂」の口紅のついた地蔵にすがりつくように、「道玄坂」に昔からあったという花街の化身のように、夜な夜なその辺りをうろつくようになったのだと。 昔見たことのある、あの電灯に吊された花首のような夢は、この坂に唐突にもスイッチが入るように繋がりつつも、何かに光を頭の上から当てられ影が思いのほか強くてそこまで顏がよく見えないような気がしていた。 夢をみた 花首ひとつ吊り下げたでんとうのひも はたじるしかな この歌は、あまりに奇妙だったので、日記に記憶のかけらとして残しておいたのだが、そのかけらのような夢において、首と身体を切り離し見せしめのように晒されながら、光を後頭部から浴びていたのが無性に気になっていたのであった。 そうして、「それ」は、「道玄坂」をゆっくりと上り、途中で幾重にも塗られ濃い紅を差しているような血をにじませながら実のところ自分の唇から止めどもなく出る血を舐めているような地蔵様をお参りし、暗闇の中、かつかつとハイヒールを鳴らして下っていくはずであった、特別な異空間と時の隙間にまんまと入り込んで、この街の点いては消えていく夜の電灯の明るさに順応してきたかのように、記憶をなくした空部屋に、ゆらゆらと夢のように、ぽかりと浮かんできたのであった。 あの夢の中の、身体のない目をつむったままの闇が向こうに透けて見えた「首」は、まさしく、「自分の顏」をしていたのであった。 身体を売り物にするのと、記憶の集合体を売り物にすることは、血と体液の染みでる「生身」と、血も体液も通うことのない生首の影を引き摺るような「言葉」の違いがあるとは言え、身体の中や時の中に潜んでいる「それ」が、ひとときの「形」を得て、その「姿」を変え続けながら、「そこ」に確かにあったのだと証明するように、真昼の太陽が頭上に昇ってこの空間を照らしていた。 しばらく歩きながら、電飾やロウソクの光はちりじりにかき消されてしまっているような、人影も疎らな「道玄坂」を上ったところに、ここいらに、昔、山賊が出たりしていたというようなことを書いた看板を見つけたが、真昼の太陽に隠されたかのように、とうとう、「道玄坂」の地蔵に出会うことはなく、坂道を下ったのであった。 これがもし夜であったならと坂道を下りながら思った。 夜になった渋谷を人が行き交い、お金で「物」を売り買いする「109」の電飾の塔をうろつきながら、人目を避けながらも、人に気付かれるか気付かれないかの気配を保ちつつ、見えない「結界」に踏み込むような夜の「道玄坂」を上って行く、自分の影が「そこ」に触れている気がしていた。 その影は、地蔵の前に立ったままの「あの女」に呼び寄せられ、呼び止められるように、鼻の利く野良犬か勝手知った野良猫のように、夜道でも電飾に反射し赤錆た血の底が透けて見えてしまった目を光らせながら、「そこ」に辿り着いて、言葉にならなかったものの気配をどっぷりと感じながら、鼻と耳をやたらとひくひくさせていたのではなかったろうか。 そうして、女達が祈りを捧げるように固まったままの地蔵に染み込んでいった、女達の唇にも塗られていたであろう口紅だけが生気をもっていた血の証であるようにこびりつき、決して語ろうとしない頑で閉じられたままの口元を見つけて、夜の外灯の下、声亡き声を拾うのであった。 事が済んだ後、痩せた身体からも時間からもひと時解放されたような面持ちの「あの女」の幻影とも実体とも言えるものに貫かれた、現実空間と夢空間の境界線の出入り口の途方もない穴蔵に迷い込んで死んでいく目も足も尻も頭もなくなった幾千万もの精子が、うっかり女の蔭に触れて喰われて溶け込んでしまったかのような、喰っているのか/喰われているのかさえ分からなくなるような生け贄の儀式のひとしきりを、赤い目の中にそうっと移し込んで、何喰わぬ顏をしながら「道玄坂」を下っていったのではなかったろうか。 等と、何度も何度も思い続けながら。 (続く)
by akikonoda
| 2009-03-09 21:33
| 小説
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