夕鶴とペリカンと創世記


今日、九州大学の北山先生の講演があると言う事を友人に聞いたので、久しぶりに、紛れ込んでお話をお聴きする事が出来た。
ちなみに北山先生は、あのフォークルの、きたやまおさむさんの別の顏である。



二人の子どもが生まれる前に、大学院で戦争における後遺症等の研究やカウンセリングを学ぶ為に臨床心理士を目指していた時があったが、その時に、直談判して講義等に潜り込ませていただいていた。

子どもが出来て、そのことから、近いような遠いような距離を保ちつつ過ごしていたのだが、その勉強をしていた期間に染み込んでいた事等が、今の自分の思考回路に少なからず影響を与え続けていることを噛み締めながらお話をお聴きしていた。

北山先生は、モーズレイで精神分析を学び、主にウィニコットを専門に研究をされており、日本における精神分析の第一人者でもあるが、今日は、神話的、物語的な面から切り込んでお話しされていた。


「夕鶴」の機を織るときの見るなの「禁止」の話は語られる事が多いが、「夕鶴」における鶴/女房は、人間ではなく鶴であると言うことが暴かれた時点の傷つきと、身を削るように羽根をむしり取りながら機を織っていることの生傷の傷つきと、それを見られて恥ずかしいと言う傷つき、といったような、二重、三重にも傷つきがあったといえると。

そうして、いたたまれずに目の前からいなくなる、姿を消すしかないと言うような哀しくも残酷な物語には、「反復」が見られると。

傷ついた鶴は、最初に夫となるものに助けてもらった状態に戻るという意味において、残酷なまでの、繰り返しを生きる、病気度が強かろうと弱かろうと誰もが何かしら繰り返す物語の、雛形であるといえると。

東洋の中の日本における異形種間の交わりにおいて、西洋の童話におけるカエルの王子が最後は人間になり幸せになるというようなハッピーエンドになるような話は、あまり見受けられないということから、日本人はある意味、残酷なまでの「別物感」というか、動物に対する厳しいまでの線引きを感じられるということ等、面白く拝聴した。


また、西洋においてキリストをペリカンや白鳥に見立てたりするところもあるということもはじめてお聴きしたのだが、精神分析の可能性を広げる為にも、今後とも、「神話」「伝説」「物語」が、どのように語られて行くかで、その時代あるいは人類や動物、植物をひっくるめた地球の物語が変わってくるような、壮大なものを折り込み繰り返されて行くような物語の必要性をどこかで感じていた。


まだ、宇宙的視点からしたら、はじまってもいないかもしれない等と思いつつお聴きしていた。



そういえば、宇宙飛行士の若田さんは今宇宙だったが、地球の外部に行ったら何かが劇的に変わってくるような気もする。

いずれ死ぬまでに宇宙に行き、今とは又違うかもしれない物語を語りたいものである。
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by akikonoda | 2009-03-26 20:52 | 記憶
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