鶴見俊輔〜戦後日本、人民の記憶〜

 を録画してもらい、拝見した。


 「人民の記憶」を都合がいいように国家の記憶にすり替えられる事が無いよう、『思想の科学』を世に出したとも言える鶴見さん達の、国家に振り回されない術としての自由な思考の場を作り上げたいきさつをお聴きし、最近そういうことを考えていたので、色々と思うところがあった。

 以前、たまたま読んだ夢野久作について書かれた評論集のようなものに鶴見さんが関わっておられたものを拝見した時に、なみなみならぬ思い入れのようなもの、夢野久作をはぎ取って骨に迫るような言葉の数々を思い出していた。

 その中で、特に印象的だったのは、夢野は、たったひとりそこのそこから受け継ぐものがいればいいような類いの作家であるというようなことを述べておられた事であった。

 鶴見さんを通した夢野を見る事で、そういう物語を死ぬまでに書けるようになりたいとひそかに思っていたのであるが。

 夢野がわっはっはと笑いながら死んで行ったと言う剛胆な話を聞いた事があるので死ぬまで書こうが生きようが、書く事で命を縮めようが延ばそうが彼にとってはどうでもいい事であったかもしれないが。その夢野でさえ、死ぬまで書き続けた事であるから、自分に出来るかは死ぬまで分からないところであるが、死ぬまで書く事にはなるであろうと、ぼんやりと思っていた。


 
 鶴見さん御自身の精神と行動の交差した軌跡を垣間見れたことで、今後の生き様の道しるべのような、今もなんとか息づいている魂のようなもの、時代精神のようなものの有り様を思う事が出来た気がした。

 
 鶴見さんの家族との、環境との、「くに」と「国家」との、言葉との「断絶」が、自分の今なお感じ続けている様々な「断絶」と重なり、更に、夢野も、その「断絶」を懐に持ったまま、わっはっはとゆっくりと笑いながら、天井をみながらうしろにのけぞるか、断絶のそこをのぞきこむようにまえのめりになりながら死んで行ったのではなかろうか等と言う事と重なり連なっていくような気がして、自分にとって、大きなものに吸い寄せられるような、無意識のようなものを揺さぶられるような奇妙な感覚を与えてくれた。

 時々、射抜かれるような、運が助けただけで、その役目が降り掛かったら、当然のように人を殺めたかもしれないご自身をも射抜くような眼差し、うそをつかないように見たまま体験したままを語る事を御自身に課したような眼差しをむき出しにされていた。

 その眼差しは想像だけでは達し得ない御自身の重みと時を過ごした重みを背負った言葉を見据えているような厳しさであった。
 


 鶴見さんは、また、こう言った。


 戦争を憎んでいる。
 自分をどれだけ憎んでいる(憎まれている?)。か、わからない人がいる。

 と。


 目の前にそれ(憎しみを向けられている?の)を感じない人がいるという絶望のような断絶のようなものは誰しも多かれ少なかれあるであろうが、自分もやはり、今連れ合いと作っている家庭・家族にではなく、育ててもらった家族に対してそういう思いは少なからずあったので、鶴見さんの「怒り」は、人ごとではなく、実際、今でも自分のものであると言え、なんともいえないものが、時々、思い出したように顔を出して消耗している自分が炙り出されたような気がしていた。



 大東亜戦争を支持し、敗戦後もその責任をあえて引き受けたといわれている竹内好について述べられた講演会において、鶴見さんは、日本は大東亜を掲げて、東亜解放を目指すとしたら、朝鮮植民地をやめ、中国と仲良くして行くうちに、日本は破壊される。それを続けるという事は、失神するまで飲む事に似ている。
 ということを、淡々と語っておられたが、「国家」ではなく同じ言葉をしゃべり、その場にいたり、いたようなゆるやかな「くに」を思うと、やはり、自分の言葉で語り、思考する事から、はじまるのだろうとは思う一方で、多国間においては押しつけではない相互交流、一方通行ではないお互いの言葉や習わし暮らしを尊重しながらの共通感覚をじっくり育てて行くという可能性はすくなからず残っているとは思われるが、日本で育てて来たものを捨て去る事ではないということも念頭に置いて、鶴見さんのおっしゃることから目を背けてはならないとも思えた。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 不思議な出会い    ウォルフレッド・オウエン作 鶴見俊輔訳

 友よ、
 私は、あなたの殺した敵です。
 この暗いなかでも、すぐに
 私にはあなたがわかりました。
 顔をしかめていたから
 きのう、私をさし殺した時にも、
 おなじように顏をしかめていました。
 私は、かわそうとしたが、
 両手は動かず、もうつめたかった
 さあ、ともに眠りにつきましょう。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


 「もうろく帳」より

 ふとわが名
 忘れし老母は
 わが面をじっと見
 やがて大笑いする



 というものを訳したり書いたりしている鶴見さんであるが、『悼詞』やご自身の詩集も出されたと言われていた。
 ぜひ手に入れて読んでみたいと思う。
[PR]
by akikonoda | 2009-04-14 13:39
<< 大きなおなかの夢 なんどでも >>