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『君はせーらー服のどっぺるげんがーを見たことがあるか?』

 ところで、権力者や反権力者の中で、良く見られる、ドッペルゲンガー現象がある。

 いわゆる、影武者伝説である。アンデルセンの中にも、王様と乞食が入れ替わる話があるが、それをちょっとアレンジした、ドッペルゲンガー版の物語の登場人物がいる。
 先のイラク戦争の当事者である、フセイン元大統領である。

 彼は、地下に潜っていたり、地上に出てきて民衆ににこやかに声をかけたり、どこかの密室で呪いのメッセージのようなものを送ったりと、大忙しであったが、その存在は掴み所のない影法師のようであった。突然現れて、やりたいことだけやって、さっていくのだ。
 そこのところは、私の影法師である、セーラー服のドッペルゲンガーと、相通じるところがある。
 むろん、私は、独裁者でも、権力者でも、反権力者でもなく、一人の獣じみた人間であるだけだが。

 影武者がいるのではないか。と噂されていたものの中に、ウサマビンラディンの存在も忘れてはいけない。
 米国がウサマビンラディンの潜伏先と疑がっているパキスタンに対して、掃討作戦を匂わせた矢先のビンラディン死亡説だったので、なんとも言えないものがあるが、仮に、彼が本当に病死したとしても、彼の影武者、ドッペルゲンガー達は、どこかで、何かを窺っているような気がしてならないのだ。

 アルカイーダという言葉は、緑の服を着て、イスラム教信者の危機の時に、助けに来ると言う伝説の人を指すと、確かクーランの日本語訳の注釈の中にあったと思う。
 その緑の服で形作られたアルカイーダ達(=ビンラディンの影法師)は、ミトコンドリアの薄い細胞膜のように、自由に酸素や栄養を外部から取り込み排除しながら、入れ替わり立ち替わりしながら、出たり入ったりしながら、永遠に「生命」を受け継いでいくように見えるが、実は永遠に「生命」の危機からの脱出を企てるような気がしてならない。

 さて、もう一方のイラク戦争の当事者である米国大統領は、その彼らの無間の入れ替わりの向こうで、じっと目を向けられている存在になりつつあるとするならば、そこでも、ドッペルゲンガー現象が起りうるかもしれない。

 見るものと見られるものの相互関係があって、ドッペルゲンガー現象が成り立つとするならば、それは、まんざら、ありえないことではないのだ。

 米国大統領が、大人しくカントリーに帰っているかもしれないし、秘密会議の途中であるはずなのに、なぜかプレスリーの家で、夕日のガンマンか、世界の保安官のいでたちで、「ラブミーテンダー」を歌っているかも知れない。
 セーラー服(ズボンであってほしい)の水兵さんになって、にこやかに、カア〜モオメエ〜 ノオ スイヘイサ〜ン と日本国民の心をぎゅっと鷲掴みにするような、郷愁感漂う、少し舌足らずな米国訛りで歌っているかもしれないのだ。
 それとも、「奇妙な果実」でも歌うのであろうか。

 見るものと見られるのものの関係は、誠にかくも複雑である。
 
 また、この権力/反権力者達と私の現象において、忘れてはならないことは、権力、とどのつまり、力=エネルギーポテンシャルが高いほど、そのドッペルゲンガーは、より広い範囲で見られる現象になる。と言うことだ。知名度によって、その現象の認識度の高低が、決まると言っても言い。

 私のセーラー服のドッペルゲンガーは、酒場兼ライブハウスで一人の知人に見られた。また、学生時代の私のドッペルゲンガーは、同期の友人数人に確認されたくらいである。
 一方の権力者、反権力者達は、世界中で、見られていたりする。

 更に、「生命」が存在する上で直面する危機にドッペルゲンガー現象が発生する。ということが考えられる。
 源氏物語の六条の御息所は愛の亡霊となって光源氏の愛を取り戻そうとそれこそ命がけであった。
 フセイン元大統領も、オサマビンラディンも、自分自身の「生命」、国、宗教等の危機に直面していたのは、自ずと知れている。
 私も、学生時代、食うや食わずで、貧乏生活を強いられていたし、結婚してからは、二人でほどほど働いていたので、貧乏ではなくなったが、実家のもめ事にほとほと疲れ果てていて、精神面で追いつめられていたりもしたことを鑑みても、危機に直面した場合におけるドッペルゲンガー現象発生率は格段上がると言えよう。

 忍者のように、影分身の術で、目くらまし、己の「生命」を繋ぎ止めようとするような、それは、「生命」のあくなき闘いにおける一つのねじれ状態である。

 と言う見解が、私が今のところ辿り着いている「仮説」である。 

 ただ、ドッペルゲンガー現象に、気づくか気づかないだけの問題かも知れないが、今後とも考察は続けて、このドッペルゲンガー現象を知り尽くしてみたい。
 
 そういえば、なぜか、ユングのUFOに関する考察を思い出した。
 もう一度、読み返してみたら、何か、思い至ることもあるかも知れない。
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by akikonoda | 2006-09-25 10:36 | 小説

『君はせーらー服のどっぺるげんがーを見たことがあるか?』

 カール・R・ポパー/コンラート・ローレンツの対話等が、刺激的に展開している『未来は開かれている』(思索社)の中で、「幽霊場」について、述べている個所を、本棚のあるところに開けっ放しにして置いていたのを、先ほど見つけた。

 なんだ。振って湧いてきたわけではなく、未知なる未来を開きっぱなしにしていただけなのだった。

 ウィーンには、中性子研究の専門家たちがいて、中性子の中の幽霊場というものが確認されているという。ここから更に進んでいるであろう研究については、まだ私は把握していないが、実在である幽霊場というものが、存在することになるであろうということだ。
実在するということは、つまり、その幽霊場は、他の幽霊場と相互干渉を形成することによってのみ、出現できる。ということだ。

 中性子をもっと、調べて行けば、なにがしか、見えてくるものがあるだろうが、その〜他の幽霊場と相互干渉することによってのみ、出現できる〜と言う件にドッペルゲンガーの入る隙間を感じたのだ。

自分自身の幽霊場だけでなく、自分自身を含んだ世界を把握しているものの存在が不可欠。と言う点は、ドッペルゲンガー現象に当てはまる事象である。

『ダブル』という、ドッペルゲンガー現象を色々な物語から集めた本があるが、その中でも、やはり、最初は、自分でない誰かが、そのドッペルゲンガーに出会っていることが多い。
その相互干渉の中に、存在するものが、ドッペルゲンガーなのではないか。という線が浮上してきた。
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by akikonoda | 2006-09-15 15:21 | 小説

『君はせーらー服のどっぺるげんがーを見たことがあるか?』

君はせーらー服のどっぺるげがーを見たことがあるか?

私はむろん、ない。

しかし、私の知人は、せーらー服姿の私によく似たどっぺるげんがーに会った。と言うのだ。

友人の紹介で、某大学病院の心療内科のA先生ご夫婦の主催する箱庭療法研究会に参加した時のことだった。
そこは、プロアマ入り乱れたラフな研究会で、寺子屋のような感じの、落ち着けるが、臨場感溢れる空間だった。

プロ、アマ、ほとんど病気、病気がち、心身ともに健康、と関係なく参加できる研究会で、一頻り、箱庭を作り、それぞれの箱庭の観賞、論評会を終えたところで、皆で、思い思いの昼食を食している時だった。

ねえ、この前、ブルーノートに来てたでしょ?声掛けようかと思ったけど、あなた、今と全然違う格好してたから、なんとなく、見てただけなんだけど。どう見ても、あなただったから、気になってね。

という。彼女は、某病院のカウンセラーとして働いていて、そういった、冗談めかした事を言う人ではなかったので、訝ったが、一応、聞き返してみた。

何時のことですか?
ブルーノートに行ったのは、連れ合いとその同僚のご夫婦とでいった時くらいで、随分前のことですよ。確か、ビル・エバンズとか言う人のものでした。
自分は、あまり良く知らないので、たまたま聞きにいっただけですし。それ程、聞き入ったわけでもありませんでした。魂が揺さぶられると言う感じでもなかったのを覚えていますが。
ところで、先生は誰のものに行ったのですか?

私は、日本の方のものでしたが。じゃあ、やはり、あれはあなたじゃなかったのですね。
よかった。あなたの趣味かなと思って、聞いていいものか迷っていたのよ。

はあ。

それがね。あなたが、三つ編みをして、せーらー服を着ていたものだから、ちょっと驚いてしまって。そう言う人だったんだと思って。あ、でも、あなたじゃなかったんだから、きっと、どこかの誰かなのでしょうね。失礼しました。

そのまま、お茶を濁して、先生は憚りに行ってしまった。

三つ編みをすることもないし、せーらー服など、どこにいってしまったかさえ分らなかったので、自分ではないとはっきりしているのだが、妙に気になった。

そういえば、以前も、そういうことがあったのだ。

学生時代、幽霊学生だった自分は、学部がまるっきり違う、文芸部の法学部に属する人達に、目撃されたと言うのだった。

彼らの法律学の教室に、すたすたと入ってきた私が、当然のように、授業に聞き入っていたという。

何かの冗談だと思ったらしい。あんまり暇なので、冷やかしにきたのではないか。と。

その時間帯、私は、幽霊学生の習い通り、自宅で食うか食わずで、行き倒れていたのだった。

冷やかすにも、腹が減っては、ままならぬではないか。

当然、友人達に聞いてみた。

声掛けたら、私かそうじゃないか、すぐわかるし。と。

友人の一人が、そう思ったらしく、声をかけたが、その私によく似た人は、にっこり笑うだけで、何も言わなかったと言う。

なんなのだ。訳が分らない。あまり意味あり気にほほ笑むのはやめてくれ。余計、複雑さが増すではないか。
しかし、もしかして、自分によく似た人が、学園内を闊歩しているのかも知れないと、思ったりもした。狭そうで、やはり広いこの世界、一人や二人、自分と似たものが、偶然、同じ大学内にいないとも限らないではないか。と思って、そのまま、ずっと忘れてしまっていた。

が、しかし、今度の話となると、少し違った意味合いを帯びていて、聞き捨てならない気がした。

そもそも、ブルーノートにせーらー服で入れるものなのか。という大前提が、欠如していると気づいたのだ。夜の酒場に、仮装していくということに対して遊びこころ溢れた行為として、周りから、あたたかく、おおらかな判断が下されたのか、それとも、風狂なものには近寄るまいと言う、万人の本能のようなものが働いたものなのか、は、定かではない。

また、その時に、声をかけないところが、あいまいなところである。
前述のような本能が働いたからというのは、職業柄、そういう怪しげな行為には敏感な先生であろうから、おおいに考えられるというものだが。プロとして、その現象を見極めてしかるべきとも思ったのだが。

しかし、なぜ、私に似たものであるのか。

それも、一応、私の行動範囲として、いずれも、出入りできる場所である。

一方は、まじめにまったく関係のない授業を受け、もう一方は、酒場に不似合いなせーらー服で駆けつけている、その存在は、一体何ナノであろうか。

共通して言えることは、場にそぐわない。ということ。
何かに、どこかに、違和感を持つもの、私の現し身のような、影のようなふたつの現象。

そこには、当然、現実の私はいない。はずである。学生時代は行き倒れていたか、結婚してからは、よいこの時間には寝ていたはずだ。
源氏物語の、六条の御息所のように、この身を抜け出した生き霊のようなものなのか。

はたまた、多重人格者のように、意識のないうちに、別人格が動いていたと言うことも、考えられなくもないが、物理的に無理であろうと思われた。そもそも、そういったものを賄う資金がないからだ。まあ、どこかから、ちょっと失敬してきたとしたら、成り立つものかも知れない論説ではあるが。それにしても、何度も言うように、私は行き倒れていたか、寝ていたのだ。その時間帯には、少なくとも。

満たされない欲望に、とらわれ、奇妙な姿でその欲望のままに振る舞う、それらは、やはり、次元の隙間に漂うような存在と思われる、私のまだ見ぬどっぺるげんがーなのだろうか。

ゆめとうつつのさかいめをみうしないそうになった。

ふと、アインシュタインの幽霊場。という言葉がふって湧いてきた。

どうも、気になる。
幽霊場って、そもそもなんなんだ。

どんなに、調べても、いまだに全然分らない。その言葉の意味。
そもそも、土台がなさすぎるのだから。理解しようがないのかも知れない。
それでも、考え続けたら、いつか、理解する時が来るだろうか。

それが、今回の現象と、結びつくかさえもわからないままだ。

もしなにかあると感じられたら、どなたか、どんな小さなことでもいいので、考えるヒントを頂きたい。
参考文献でも、何でも手当たり次第に、追及してみたいと心底思っているのだ。
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by akikonoda | 2006-09-13 12:42 | 小説