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カネフスキー三部作の印象として


「動くな、死ね、蘇れ!」

世界大戦後。

ろしあの片田舎の炭坑町の収容所地帯のバラック小屋然とした家々と泥炭の道なのか空き地なのか分からないごつごつと荒れた大地。
少年ワレルカと少女ガリーヤは広場か市場のような人が集まって狭苦しい場所でお茶売りをして稼いでいる。

近所の収容所で働かされている日本人達。
月が出た出た 月が出た と歌う声が無表情の侭、荒れた地を歩くように響き、どこにも還れないその声を風が巻き上げていく。

暗い長屋風の部屋で、子豚を飼い始めた母一人子一人のワレルカの親子。
彼らも又、なんとか生きながらえているものの、ゲットーの中に閉じ込められた、さ迷い人のように、その日をやり過ごしている。

人の生気をどんどん吸い取っていくかのような、ぬかるんでいくような、この湿った寒さに、ろしあの姿をずっと見ていたように思う。

イースト菌を肥だめにばらまいたり、機関車の転覆等のいたずらがたたり、街に逃げるように出て行き、宝石泥棒の片棒を担ぐまで行き着いたワレルカを探偵のように探し当てたガリーヤは、「象」と呼ばれるマフィアに追いかけられ、銃で撃たれ殺される。

ござのようなものをかぶせられ、荷車に乗って家に帰ってくると、その母親が狂った魔女のようにまっ裸で掃帚にまたがって何やら叫んでいる。

ろしあの大地の薄ら寒さの中、どうする事の出来ないような尿意をばらまかれるような、生温い匂いをつんとさせ見せつけられるような狂気。





「ひとりで生きる」

15歳になったワレルカは生き延びていた。あの二、三発なったであろう象のはなった銃声は、ガリーアだけを死に至らしめていたのだった。

その状況は、昔よりも荒んでいるらしく、寄宿舎の中でも、やりたい放題であったが、その校長も又生徒を反省させようと部屋に呼びつけておきながら、逆に女生徒とねんごろになったりしている現実から逃亡し、街に出て行く。

会話の成り立つようになったと見受けられる、近くに住んでいた鉛筆をほしがり、はりまや橋の歌を歌っていた収容所のやまもとという日本人は、日本に帰るはずだったのに、別のところにいたりするのを見つけたりしながら、とある街に辿り着く。

そこで女達に世話になっていたり、仕事をしていたりするワレルカに手紙を送り続ける死んだガリーヤに生き写しの妹ワーリャ。

ワレルカが逃亡する前に、恋人関係になった二人であったから、ワーリャは待っていたのである。

待ちきれずにか、ワレルカの住む街に来たワーリャは、姉のガリーヤと同じく鼻が効くようでワレルカを波止場で見つける。

赤ちゃんが出来てたとしたらどうする。と謎かけをしながら、実は、もうすぐ船に乗って世話になっていた女と違う場所に出かけようとしていたワレルヤに愛想を尽かしたワーリャもまた、船に乗り込むが、ワーリャがいる事を知った女達にも愛想を尽かされて、船に一緒に乗る事を拒否されるワレルカ。

船に迷い込んだ鳥は不吉だといいながら、船を降りるならばその鳥を放すように見知らぬ女に言われていたワレルカは、船が岸を離れるのを見ながら、鳥を放つが、鳥は飛べないまま落下し、そのまま波打つ水に浮かんでいた。

そうして、船から誰かが飛び降りた。と言う声が、どこからか聞こえてくる。

そこから夢か現の境目を彷徨うように、家を蝕む鼠を焼き殺そうとして、その檻から逃げ惑う火達磨の鼠達。

赤ん坊が寝ていると思われた木枠にいつのまにかワーリャかガリーヤかわからない女が無表情の侭、むくと起き上がったりしている小屋の周りをひょこひょこうさぎ跳びする裸の女と男の追いかけっこが延々と続いている。

女が先にまわっているか、男が先にまわっているのか。わからない。

日本の神話の中にもたち現れてくるような、原初の儀式のようなビジョンが目くるめく流されていく。


それから、ワレルカは叫びながら、水辺を彷徨い、胸をはだけて誰彼ともなく、胸に刻んまれていたのか、描かれているだけなのかは分からない、ダビデの星を見せつける。

ワレルカが彷徨う民のひとりであったことを黙示するように。




「ぼくら、20世紀の子どもたち」


崩壊後を生きるこどもたち。ドキュメンタ。
大人はさほど映し込まれはしない。
ただのんだくれているか、柵の中にいるか、ほったらかしているか、物騒な物取りに殺されたかの話。
隠れがにすんでいたり、世話をしてくれない親の傍らから抜け出し、仲間の家に泊めさせてもらう日々。
ストリートチルドレン化した子ども達は、煙草を吹かし、何をする訳でもなく川縁に座ってその日と過ごす。

一方で、カメラは、ロシア正教寺院の中であろうか、訳も分からず、水を額につけられ泣きわめく幼子から、賛美歌を集団でこぎれいに折り目正しく歌う子ども達を映し出していく。


人はなぜ歌を歌うのか。


なぜか、撮り手は、ストリートチルドレン達にも「歌」を歌ってとせがんでいた。

何か歌って。と。

そういえば、この物語、いや、この撮り手の作って来た、三部作には、全て歌が流れていた。
聞き慣れた日本の歌もあったが。

歌こそが、その人の、声と生き方を一瞬で伝えてしまう「何か」なのだといいたげに。

それから、檻の中に入れられている、高校生くらいの女の子にもカメラは向けられていた。
不法侵入した後、そこにいた同級生の首を絞めてしまった女の子が、時に笑いながらその「時」の話を自慢げに語って聞かせる。次々にちょっと大きくなった子ども達は舞台に立つように、檻の中に入れられ、自分のおかした罪を懺悔するというよりも、自分が見て来た映画の物語のように語り出し、最後に残った男女は二人でゆっくりと手を取り合って、檻の中で踊り続ける。

そこから、ガリーヤ・ワーリャ役の女性が、檻の中でくらしているらしいワレルカ役の青年に面会にきている場面になる。

二十世紀になっても、ワレルカは、何かに囚われている。
一体何か。過去の自分か。あるいは「自分」に流れる血のようなものの辿ってきたであろう時か。

ワレルカ役の青年は、それから、「動くな、死ね、蘇れ」のガリ−ヤが死ぬ前に二人で歌っていた歌を、ギターの弾き語りで歌うのだった。
by akikonoda | 2010-03-23 15:44 | 記憶
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