学生時代からの付き合いの永い、随分、年を取った是枝と言う先輩がいた。 大学を8年掛けて卒業したものの、学生時代から翻訳の仕事で食い繋いでいた。 時間があると、なんとなく、沙世のところにふらりときた。 沙世も、なんとなく、ふらりと出向いたりして、ゆるゆると繋がっている凧の糸みたいな関係だった。 風がないと、すぐにでも、くるくると落ちてしまうような、竹をかっさばいて古和紙を張り合わせたような、文様のような糊の後がこびりついて絵すらまともに描けそうもないような、思いつきで継ぎはぎされるような類いの凧なのだった。 沙世と是枝の、どちらが凧で、どちらが凧糸かは、その時々で見分けがつかないが、凧を操るのは、たまたまそこを通った風と気まぐれな誰かの手なのだった。 写真部の先輩の益山がアルバイトをしている穴蔵のような薄暗いジャズ喫茶「こんぼい」に連れて行かれることもあった。 「いらっしあい。久しぶり」 益山は、酒の飲みすぎで内臓に脂肪が溜まっていて、顔色はいつも優れない。白い粉をつけたような薄青い肌をしている。 穴蔵で、半日以上店番をして、その後、近くで飲みつぶれているような毎日であったから、それも、致し方ないことであったが、そろそろ、顔色からして、限界の日は近いようだった。 沙世が話しかける。 「益山さん。そろそろ、日なたに出た方がいいですよ。春も近いから」 「それぐらい、わかっとう。そろそろ、かごんまにかえろうかな。俺」 「へえ、鹿児島だったけ。益山の里って」 是枝が、意外そうに聞き返した。 「うん、そうなの。俺の実家は開聞岳にあってさ。結構、穴場だぜ、あそこは」 「へえ、そうなんだ。益山さんが帰ったら、遊びに行くよ」 「ああ。お互い、生きてたらねえ。俺より、お袋がやばそうなんでね。結構、早いうちにそうなるかもね」 がんがん鳴り響いては、穴蔵の壁から音が跳ね返ってくる。まるで、永遠に閉じ込められた人の金切り声の谺だ。耳はいつまでたっても慣れないのだが、音を除いたら、そこには、穴蔵のほのくらい心地よさがあった。 沙世の母親は、胎教でニーナ・シモンを聴いていたらしく、生れる前から、そういうところに、流れつくことをすり込まれていたようで、こうるさい子守歌を聞くように、沙世は、抗うこともなしに、その流れにたゆたうことにしていた。 耳を揺さぶる音が流れる中、益山に入れてもらった苦いコーヒーを飲みながら、あの時、是枝と話していた事が、沙世は、今でも忘れられないのだった。 独りで食べたり、誰かと食事をしたり、飲んだりする時に、繰り言のように、幻聴のように聞こえてくるような、今そこで語り合っている場面を見ているような気がするのだった。 「だいたいさ。俺って変なとこあってね。女性とこうやってお茶や酒を飲んだり食事したりする時、セックスをすることより、すごく緊張することがあるんだ」 「どうして」 「たぶん、その人の食べ方とか、食べるものの選び方って、その人の生の部分が見えるようで、胸騒ぎがするような感じがするんだろうね。セックスは暗がりだし見えないから、どちらかというと気にならない」 「そういうものかな。なんか、そう言う風に見られてるって思うと、気楽に、ご飯も食べられない」 「別に。おまえは基本が男だから。胸ないし。だから、こうやって、連れになる」 「別に。連れでも何でも無いけど。まあ、そういう感じはわからないこともない。目の色を変えて、手当たり次第詰め込んでいるのを見ると、変に気にはなるね。なんともいえず。いい加減に。という感じに」 「一緒にご飯を食べるのは、そういうことでもある。家族も在る意味そうかもね。相手を食いながら生きてるって感じが、しないでもない。何かを食いものにするってそういうことなのかなと。かなり、食いものって、喰うって怖いことでもあるなと」 「相手を食うか。共食いみたいに。怖いね。しかし、そこまで、いちいち感じてたら、生きづらいでしょ」 「うん、大概、食べることにも、セックスにも疲れ果ててる」 「ははは。そうだろうね。怖いよね。朝も昼も夜も、あなたの日常、そのものが。食べたくても食べれないという、お互い極貧の労働者でさ。食べる以前の問題も在るけど」 「まあ、俺達は四六時中、戦時中みたいなものでさ。何かに腹を空かせてるから、尚更、そう言う妄想めいたものが、頭を駆け巡るのだろうね。セックスどころじゃない。泡は弾けて、萎むこともないし。輪郭だけあったのに、姿も形もなくなってしまったしね。あの時、踊りまくってた羽根の生えた扇子持ったおねえさんやそれに群がるおにいさん達も、見かけなくなったしね。踊り念仏みたいにさ。狂ってた。集団で狂ってたら、意外と気付かないだけでね。しかも、完全燃焼してしまったから、もう終わったことにしてしまえるのだろうけどさ。逆に、俺達みたいに、ひとりふたりのものくるいだと、性質に負えないくらい、おかしさがしぶとくなってくるんだろうね。まだ終わっちゃいない。てね」 「本当に。性質に負えないくらい、日増しに加速されていくおかしさ、ものくるいだよね」 「まあ、それが、少しでも分ってるだけ、まだ、ましかな。皆でやったら怖くないけど、ひとりふたりだと、妙に怖がられるものだから、在る意味、しんどいところあるからね。全然、救われないしね」
by akikonoda
| 2007-03-02 10:40
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