毎朝、助手の五島が、竹波のところにやってきて、まず最初にすることといえば、便所掃除だった。 まだ、空気が張りつめた山奥の禅寺に棲まう、年端もいかない僧侶のような神妙な面持ちで、便所の小窓を開け放ち、便所専用の雑巾を掛け始める。 壁、机、椅子、黒革張りの治療台、床、窓、窓枠、玄関といった風に、雑巾は、すべて、場所によって決められていた。 雑巾だけではなく、声色までも、御師匠さんから教え込まれる弟子のように、逐一、決められて、竹波のような声を出すように促されるのであった。 五島は、ここに来てからと言うもの、電話が鳴ると、妙に身構えてしまうようになってしまった。 竹波に、予め決められた声色を強いられていたからであり、自分がもう一人の竹波になるように、飼育されているような気さえしたからでもあった。 竹波はいつもと全く違った人の声だと思うと、電話の相手がいらぬ不安を抱くようになるし、それは、以前からここに勤めていたもの達の習わしでもあると言う。 西洋医学を一通り学んできた五島であったが、東洋医学からの所見を見渡してみる事を選んだ手前、竹波の求める事に、付き従っていくことを、自分に課していた。 施療にきたものは、必ずと言っていいほど完治していくという話を、当の患者達から聞く度に、その術を目の当たりにし、神懸かり的とさえ言われる、竹波の施療過程を盗みにきたような負い目を少しは感じていた五島は、それまでの、自分の学んできたものとは径路も毛色も違うことばかりだが、黙々と、その竹波の調子に付き従っていた訳であった。 31日分捲る頁のある暦のように、毎日、恙無く、同じように事を運ぶことが、何よりも必要である。 と、言っていた竹波は、急激な変化を、何よりも嫌っているようであった。 声の調子にも、気を使っていたのは電話の受け答えの指示の件で、一応理解できはしたものの、気温や湿度、あるいは生命の潮流に、耳を澄ますと言うよりも、異様な熱を放ちながら、自分の手元で操る事を好むような、偏熱狂ぶりなのであった。
by akikonoda
| 2007-07-26 16:20
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