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ネグロポンテ ジョージ・シュルツ メモ 〜ウィキペディアより

ネグロポンテについて

ネグロポンテは、大学卒業後に国務省に入省した。彼は当初香港、後に南ベトナムに派遣された。そこで彼はヘンリー・キッシンジャーの注意を引き、ニクソン政権の国家安全保障会議に入った。南ベトナム崩壊後、ネグロポンテは、ワシントンから離れ、エクアドル、後にギリシアに左遷された。
ロナルド・レーガン政権の下で彼は復権し、当時中米における共産主義との闘いの砦であったホンジュラスの大使(1981年 - 1985年)に任命された。彼は米国からの武器の供給の組織者として働いたが、現地政権の犯罪的行為には目を閉ざした。ホンジュラスにおける人権無視の態度に対するネグロポンテへの批判は止まなかったが、彼は下院の委員会においてですら何も知らないと言って逃げた。
ホンジュラス後、ネグロポンテは海洋・国際環境及び科学問題担当国務長官補佐官(1985年 - 1987年)、国家安全保障問題担当大統領副補佐官(1987年 - 1989年)として働き、メキシコ(1989年 - 1993年)及びフィリピン大使(1993年 - 1996年)に任命された。
その後民間に去り、1997年から2001年の間ニューヨークのMcGraw-Hill社の副社長を勤めた。
コリン・パウエルのおかげで政界に復帰し、2001年9月18日、国連大使に任命された。ここで彼には、アフガニスタン及びイラクに対する戦争の必要性を国連加盟国に納得させるという課題が課せられた。彼はこれを上手くこなし、2004年6月28日にイラク大使に任命された。
トム・キーン元ニュージャージー州知事が委員長を務めた9/11委員会が国家情報長官職を新設するよう勧告すると、ブッシュ大統領はこれに応じて2005年2月17日にネグロポンテを初代国家情報長官に任命した。4月21日に上院は98対2で彼を承認した。
2007年1月、中東政策の変化と関連して、国家情報長官を退任し、2006年6月のロバート・ゼリック退任後空席のままだった国務副長官に就任する予定である。
[編集]出自

ロンドンの造船王の家庭に生まれる。ギリシア系。1960年、イェール大学を卒業し、学士号を得た。同期生には、元CIA長官ポーター・J・ゴスがいる。
ネグロポンテは、対外関係会議とアメリカ外交アカデミーの会員である。過去、米仏財団の議長だった。
マサチューセッツ工科大学メディア研究室の創設者であるニコラス・ネグロポンテは実弟。


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ジョージ・シュルツ

生涯

シュルツは1942年にプリンストン大学で経済学の学位を得る。同年海兵隊に入隊し、1945年まで軍務に就き大尉まで昇進した。その後1949年にはマサチューセッツ工科大学から産業経済学の博士号を得る。彼はマサチューセッツ工科大学の経済学部および同大のスローン経営大学院で1948年から1957年まで教鞭を執り、1955年にはアイゼンハワー大統領の経済諮問委員会の委員に就任した。1957年には労働関係学の教授としてシカゴ大学のビジネス大学院に加わり、その後1962年に学部長に就任した。
シュルツは1969年から1970年までリチャード・ニクソン大統領の下で労働長官を務めた。その後彼は行政管理予算局局長に就任し、1972年5月から1974年5月まで財務長官を務めた。この期間中に、ポール・ボルカーおよびアーサー・バーンズと共に金本位制とブレトン・ウッズ体制の終了を決定した[1]。
[編集]国務長官時代
1974年、シュルツは政府を離れ、ベクテル社
http://www.asyura.com/sora/bd12/msg/592.html
の社長に就任した。
その後1982年7月16日、シュルツはレーガン大統領から第60代アメリカ合衆国国務長官に指名された。シュルツはタカ派が多数派を占めるレーガン政権において穏和な外交政策を主張し、しばしば対立した。シュルツはイラン・コントラ事件における「人質のための武器」問題に対して反対意見を述べたことで合衆国世論の大きな注目を集めた。シュルツはニカラグアへの侵攻に積極的な立場をとり、1983年には議会において「我々はニカラグアの癌を切除しなければならない」と証言した。また1985年にニカラグア大統領に就任したダニエル・オルテガとの政府間交渉に反対し、「交渉のテーブルの上に強制力の影がちらつかないのであれば、『交渉』という言葉は『降伏』を遠回しに表現しているに過ぎない」と述べた。そして国際連合や世界法廷といった外部の仲介による「理想的・法的」解決を提唱して「方程式における力の項」を無視する人々を、厳しく批判した。
[編集]引退後
1989年1月20日、シュルツは国務長官を辞任した。しかしながら引き続き共和党の政治参謀として活動した。その一方でシュルツはドラッグの合法化を主張する共和党員の急先鋒となり、多くの保守派の党員を驚かせた。そして1998年6月8日にはニューヨーク・タイムズ紙に「今日、世界的規模によるドラッグとの戦いが、薬物乱用よりも多くの問題を引き起こしているだろう」という広告を、署名つきで掲載した。
2000年の大統領選挙ではジョージ・ウォーカー・ブッシュの選挙参謀を務め、その後ディック・チェイニー、ポール・ウォルフォウィッツ、コンドリーザ・ライスらが所属するブッシュの政策顧問団「バルカンズ」では上級顧問も務めた。
by akikonoda | 2007-11-20 13:40
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