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能における言葉 野宮と山笠と箱崎 それから 三島


赤煉瓦館で能における言葉~古典と新作能〜「山笠」といった内容のお話を、昨夜お聞きして来た。

講師は、能楽師・太鼓方高安流の白坂保行さんという方であった。

最初に、「野宮」のサシクセを朗々と声にされたのだが、其の抑揚と間を己のものとする事こそがそのつらつらと書き連ねている言葉がこの世のものとなり、夢か現かはわからないままに蠢き出すことであるということを、朧げながらもわからせてくれた気がした。

地から響く音と隙間を垣間見るような、儚いが波打ち漂う何かは、例えようもなく、たましいのようなものをいつまでもそこに帰していくような空間と化す。

役目は変わりゆけども、繰り返される共通夢が浮かんでは消えていくような。


新作能「山笠」は、福岡市等の後押しなどもあり、作られ、上演もされたとの事だったが、いわゆる高砂のような、祝祭的、神事的にも昇華されていく過程を、山笠の情景とともに描いているようであった。

現在二百くらいの能の台本のようなものが昔とさほど変わりなく、繰り返し人を換えて時代を超えて生きながらえていると言われており、まだ、300くらいは眠ったままと言う事であった。

ちょうど時を同じくその日、其の時間に、筥崎宮で、観世流家元の能「箱崎」も奉納されていたらしく、そちらも、是非、拝見してみたかったが、後の祭りであった。

能がこんなにも身近な筥崎宮であっていたというのが驚きであったが、神功皇后が筥松の下に戒、定、慧の経巻を埋めたという筥崎宮の社伝を題材に、観世流の祖、世阿弥が約六五十年前に創作した作品であると言う。

実は、白坂さんも、その「箱崎」の復曲も当初視野に入れていたが、家元がするということを途中で知り、「山笠」があるけん博多ということもあり、「山笠」の創作を押し進めたという裏話もお聞きした。


ほとんどの能が、旅人の出くわした一夜限りの夢か現の物語として描かれているということであったが、新作能というものは、それらを踏まえながらも、この「山笠」をどこまで表現しうるかのせめぎ合いがあったという。

まだそのせめぎ合いは続いており、その「山笠」は、足す事も引く事も出来ないようなところまで、煮詰めていく必要があるとご自分にその役目を課しているように見受けられた。



講演の終わりに、質問された年配の方がおられたが、其の方が、三島の能について話されたのが興味深かったので、ご紹介させていただく。


「野宮」に見られるような儚いものが、三島の能にも、見受けられるが、この祝祭的な新作能「山笠」には、それが見受けられないのはどうしてか。

といったものであった。それにこたえて、白坂さんは、


確かに、古典的能において、最後に悲劇的なものを感じさせながら終わらせていると感じさせる「何か」はあるが、そのはかないものはそれでも、何かを納得して消えていったように描かれている。と思われる。

という事であったが。


実際に、三島の創作能や新作能「山笠」を生で拝見してないので、そのやり取りの流れすら見えてないのであるが、それを聞いて、三島さんは、どう思われるのだろうか。

と、ご本人が生きていたら、直接聞いてみたいと思わずにおれなかった。


自分も、夢野久作が書いた「あやかしの太鼓」に繋がる何かを感じて、そこのところを白坂さんに、ぜひとも聞いてみたかったのだが、時間も迫っており、お開きになってしまった。

まだ、昇華されていない何かが残る、儚い一夜の事であった。
by akikonoda | 2008-09-19 11:11
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